一人でできることについて

僕がこうしてダラダラ書いていることは単なる文字の羅列かもしれないけれども、
少なくとも僕から見ればそれは意味のある文章であって、それらの文脈にそれらを理解するための前提があって、だから現時点においては僕においては意味がある文章であって、でもそれだけじゃ、それだけだとこうして不特定多数の人に見られる場にドロップする意味は全くなくて単なる自己満足の範疇を超えなくて、それは初めのうちは、なんとなくブログを作るという行為から何かを提供する立場になったと思った気になっただけで全くそんなことはなくて、そうすることができる環境にいるのにも関わらず、そうでない時でもできるような、そう、アプリのメモにタラタラ思いを書き続けていくように、そういう意味合いでしかなくなってしまって全く面白くなくなってくる。
そうなると欲したくなるものは他者からのフィードバックであって、そうするためには文脈に、前提を付与する必要があって、単なる文字の羅列を意味たらしめる必要があって、
だからこそ、今まで僕がしてきたあのオナニズム的非詩的で小学生の読書感想文にも満たないような単なる散文は全く将来的じゃなくて、恥ずかしいことだった。

僕は昔の記事を非公開したい気持ちがある。でもそれすら、自分のやってきたことを否定するのはなんか嫌だし、少なくとも何ミリかはいい文章があったし、不完全であることに寛容であるべきであって。

一人でできることは限界がある。サッカーをするにしても、トランプゲームをするにしても、愛を知ることも、生きることについて話すこともね。

コロナ禍で僕は一人を長く経験した。意図的でもあるしでもやらないだけだったけど。後悔の方が多いけれど得られたものもあって。
アルバイトも週一回とかで、誰ともほとんど会わないでたまの登校日を除いてほとんど家にいてコナンとワンピース、ジョジョ、よう実、いろんなアニメを見たり三島由紀夫や東野圭吾、太宰治などいろんな本を読んだり、当時はやっていたひろゆきの生放送を見たりしていた。
これらは一人でもできるし、実際これらの時間を経て今があって、通ってきてよかったと思う瞬間もあった。でもそれらを感じる時というのは誰かといる時で、そうでないと全く実用的でなくて、これは僕の一人力がないからかもしれないけれど。

誰かといることはストレスもあるけれど、大抵のことにはストレスがあって、そうでないとだんだん麻痺してきて何も楽しくなくなってしまう。
だからそういうところも込みで人生なのであって、だって僕だって不完全だから誰かにストレスを与えているのだからね。


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