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「甘え」の許されない世の中

「忍耐」「鍛錬」といった言葉が、時に苦しく感じることがあります。

どうしても世の中は、耐え忍び、鍛え上げられたものを高く評価する風潮があります。

しかし、その評価は万人に通用するものなのでしょうか。

今回は、学校現場で働く僕と、ゲイとしてマイノリティに生きる僕の視点からのお話です。

みなさんは、どんな学生生活を送ったでしょうか。

どんなことにも立ち向かい、叱咤激励の飛び交うアツい学生生活だったでしょうか。

それとも、好きなことを楽しむ、まったりのびのびとした学生生活だったでしょうか。

きっと真面目に学校生活に順応するほど、前者のような学生生活だったと思います。(後者が不真面目であるとも思いません。)

僕は、これまで多く取り上げられてきた前者のような学校生活に違和感を抱くことが増えました。

適応できない子供×マイノリティに生きる僕

公立小学校に勤めていると、実に多様な子どもたちと出会います。

毎日遅刻する子、授業中に騒ぎ出す子、集団から逃げ出す子。

子どもだけでなく、保護者や地域を含め、今まで経験したことのないようなバックグラウンドをもった人生を歩んでいる人も少なくありません。

失礼な表現にあたるかもしれませんが、決して普通とは言い難い状況で、話を聞くだけで胸が苦しくなるようなときさえあります。

公務員としてしっかりお給料をいただいて、十分幸せな生活を送っている僕からしたら、そういった人生を歩む方々と比較することが失礼なのかもしれませんが、マイノリティの中で生きる息苦しさや閉塞感に、少し近しいものを感じることがあります。

社会的に認めてもらえていないような自分。

”ふつう”の人とはどこか違う自分。

自分の力では変えることのできない生きづらさを抱えていても、甘えを許してもらえない世の中が存在しているのではないかと思います。(都合がいいですが、「変えてみせろよ!」とか、「みんな甘えてねぇだろ」とか、そういう話ではありません。)

学校での話になります。

勉強の苦手な子がいますよね。

やりたくない気持ち100000000%。

なんとかして回避しようとします。

「やだ。」「めんどくさい。」「分からん。」

こんな子がいたらどうしますか。

「やりなさい!」ですか。

「甘えるな!」ですか。

「努力が足りない!」ですか。

学校の先生って、なんとかしてやらせようとする人が多いです。

保護者も、そういう姿を先生に望んでいる人が多いです。

僕は、その感覚に違和感を抱きます。

その感覚は、「みんなできるから、この子もできる。」という、画一的で個々への配慮に欠けた言動だと思うからです。

みんな一緒だなんて、僕はイヤです。

もちろん、子どもによっては、その手立てで頑張って成長できる子もいることは確かです。

僕は、子どもによっては、「一旦休ませる。」「自分でゴールを決めさせる。」「やり方を変える。」など、その子が「やれる!」と思うところまでハードルを下げます。

苦しいことに、それを「甘え」という人がいます。

それを「甘え」というならば、僕はいっぱい甘えたらいいと思います。

本人が立ち向かう準備もできていないのに戦わせようとすること自体、間違っているんです。

女性に恋心を抱かないのに、恋をさせようとする人。

結婚できないのに、結婚させようとする人。

働ける状態ではないのに、働かせようとする人。

これらは、「甘え」ではありませんよね。

「甘え」ってのは、できるのにやらないことなのではないでしょうか。

では、その「できる」「できない」は、誰が判断するのでしょうか。

それは、本人でしかないのです。

できないなら、できない。

できるなら、できる。

それを勝手に他人が「甘え」だと決めつけて、無理やり動かそうとすることが一番危険だなと思います。

「甘え」の許されない世の中

それは、大多数のできる人が、できない人に向ける凶器なのかもしれません。

自己決定が他人の一言によって、「甘え」だなんて言われることがないことを願っています。


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