電車の車内が小さな社会に見えたときの話
僕は毎日電車で通勤しています。
電車通勤と言っても、2駅だけでたった5分だけの車内です。
でも、行きも帰りもそこそこ混むんです。
そこそこ混むんですけど、ぎゅうぎゅう詰めでもないくらいです。
あるとき、このくらいの混み具合が社会の縮図のように感じたことの話です。
僕が乗るころには、席が満席で立って乗っている人も結構います。
さて、ここからが僕のチクチク小言タイムです。
まず乗ると立ちはだかるドア際族のみなさま。
あなたの一歩が今から乗り降りする人たちの流れを変えます。
そして次に座っていらっしゃる足組み族のみなさま。
あなたの長い脚が一人分の居場所を奪います。
そして最後に便秘族のみなさま。
あなたが奥に詰めるだけで、人の流れがスッキリ快調になります。
これが社会の縮図なんだなと。
ほんの少し意識を向けるだけで、滞っていたことが流れ始めたり、苦し思いをする人が減ったりするのに、どうにもこうにも動かないときってありますよね。
それだけではありません。
始発駅から乗ったのでしょう。混みあう車内でも奥の座席に座って、安寧の地を得たかのように悠々とスマホを触る人。
お年寄りや子連れの家族がいても、まったく気の付かない人。
誰かに迷惑をかけているわけではありません。とりわけ問題があるとも思いません。ただ、社会で起こる様々な出来事に目を向けずに、見て見ぬふりをしている様子ってこういうことなんだなって思います。
あるときから、車内を見回してみては、こんなことを思うようになりました。
”狭い車内でも、感じ方や過ごし方が様々で、楽な思いをしている人もいれば、不自由な思いをしている人もいる”
まさに社会そのものではないか!
でもずっと同じ境遇にあることはないんです。
電車に乗る時間や場所によって、座って悠々と過ごしたり、押し潰されながら過ごしたり、ちょっと声が大きくておしゃべりな友達と乗って周りに申し訳なかったり、BBQの帰りで炭のにおいをまき散らしていたり(笑)
どの立ち位置にもなり得るところも車内と社会は、そっくりなんだなと。
僕は、今生きている社会を車内に例えるとどこにいるのだろうか。
ドアの前に立つように、集団への誰かの介入を妨げているのではないか。
足を組んで座るように、偉そうにして近寄りがたくしているのではないか。
座ってスマホを触るように、困っている人の存在に気付けていないのではないか。
そんなふうに小さな世界観で自分を見つめなおすと、自分の立ち居振る舞いに気付かされることもありそうです。
僕は、この歳になってようやく席を譲れるようになりました。
分かっていても勇気がでなかったり、傲慢な態度になっていたりすることってありますよね。
ほんのちょっとでもいい。心に余裕が生まれたときに周りを見回して、何かしらのアクションを起こせたらいいなと思いました。
「電車の車内が小さな社会に見えたときの話」
それは、周りに意識を向け、寄り添うとはどういうことかについて俯瞰的に考えさせられた話なのでした。
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