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ちなみに写真は高円寺の町中華

2018年夏、それが平成最後、そして私の学生としての最後の夏だった。

18歳になった人間にかける言葉ランキング1位「これでドンキの18禁コーナー入れるじゃんwwwwww」というチープでかわいいユーモアを一身に受け、私は18歳になった。8月の終わり某日が私の誕生日だ。

小中学生の頃は夏休みの最終日だったりある年は始業式だったり、またある年は夏休み明けのテストの日だったりしたので、友達から忘れ去られただただ虚しい日でしなかったのだが、偏差値?よく分からないけど全員抱いたぜみたいな高校に進学したため、高校生になってからの誕生日は大変有意義なものだった。
大量のじゃがりこをくれたあの子、好きなアイドルのグッズをくれたあの子。
イオンでプリクラを撮ったり(田舎の娯楽はイオン、ドンキ、パチンコのみ)、友達の家でゲームして過ごしたり、朝起きてTwitterをみたら「お前北の国からもプレゼント贈られてんじゃん」と謎のリプが何件か来ていてニュースをみたら北○鮮からミサイルが飛んできていたりした。それはそれは美しい思い出だ。ミサイルはどうかと思うけど、みんなありがとうございます。お陰様でここまで生きています。


紆余曲折ありながらも高校を卒業し、一応社会人になった訳ですが、入社式で私辞めます宣言をしたり上京してよくわからんバイトに手を出したり(合法)夜の都内を友達とほっつき歩きながらネズミの大群を見かけ大騒ぎして19歳になり、自分で稼いだお金で自分の好きなアイドルのグッズを買い漁りライブに行きまくったりしていた。
19歳の時といえば、ただただ毎日がすごく楽しくて苦しくて、もう少しで十代という免罪符を失ってしまうという焦りがあって、いつまでも子供のままでいたいと考えていた。

そして2020年、あの例の感染症で私の、というか人類の生活は一変した。冬以外マスクしてるもんならうわ、陰キャやんwという目で見られていたのに今では逆になっているし、ワクワクチンチンの予約で大忙しの人もいればそうでない人もいる。
一時はマスクが3000円以上したし、トイレットペーパーを買いに思いつく限りの薬局を彷徨うハメになった。私の当選した舞台は中止になったし(未だに恨んでるからな)、ライブもなくなり、友達とも会えず、永遠にバイト先と自宅の往復をする。
気が狂いそうな毎日だったが、家に帰れば母と妹がいた。

20歳の誕生日は川口のマンションでライブ映像を観ながら迎えた。
母に「お前がタバコ吸ってるとか面白すぎるからいまからコンビニ行くぞ」と言われて、換気扇の下で母と並んで初めてタバコを吸った。
マルボロのアイスブラストだった。

今ではストゼロ狂いの私だが、20歳当初は酒の良さが全くわからなかった。両親ともに酒もタバコもやりまくりの絵に書いたようなヤベえ親だったので、ストゼロにウオッカをぶち込んだり浴びるほどビールを飲むのに抵抗はなかったのだけれども、母に作ってもらったカルーアミルクが美味しいなくらいで酒にお金を使うのは愚の骨頂だと母をよく揶揄った。
最初から私がお酒大好き好きマンだったら、もっと母と居酒屋に行ったり家でゲロ吐くまで飲んだり、いつも以上に腹割って話が出来ていたのかもしれない。

私が毎日ストゼロに溺れるようになったのは、皮肉にも母の死によるものだった。

忘れもしない12月10日、私は自室で寝っ転がって絵を描いていた。妹が「お姉ちゃん、ママがゲロ吐いて寝てるよ」と笑いながら教えてくれた。
母の部屋を覗いたら本当に母がゲロ吐いてぐうぐう寝ていて、いつもの事だし、正直面白すぎて、爆笑しながらママ起きてなにやってんの、ゲロ髪についてるよ、と何度も揺さぶったけれど母が起きることはなかった。
さすがにおかしいと深夜1時に呼んだ救急車の中で、駆けつけてくださった救急隊の方に「もうお母さんは目を覚まさないかもしれない」と言われて、母の手をぎゅっと握ったら、家事で少し荒れたあのかわいい手で握り返してきて、母の意思ではなく体の反応としてだろうがなんだろうがそれが悲しくて悲しくて、ああもう母と家に帰ることは無いんだとようやく自覚した。

2日後、母は知らない町の知らない病院で父がラーメン食ってくるわと退席している間に安らかに息を引き取った。父に自分の死ぬところを見せたくなかったんだろうと思う。そういう人だったし、そういうところが大好きだった。


人はいつか死ぬんだと、分かっているつもりだった。でもどこかでそれを、他人事だ、私だけはいつまでも優しいモラトリアムの中で生きていくのだと思い込んでいた。

母は亡くなったけれども母の残していったものは家中に溢れているわけで、それがまた母がいなくても変わらない世界と二度と戻ってこない私の当たり前を象徴しているかのようでそれがすごく嫌だった。
遺品を整理して(押し入れにぎゅうぎゅうの漫画と食べかけのお菓子くらいしかなかった)、ゲロまみれの布団を処分して、狭いところが好きと言っていた母の四畳半ほどの部屋は悲しいくらいスッキリして、誰かが毎日ここで酒を飲んだり化粧をしたり就寝したり、娘とくだらない話をして、生活を営んでいたことが嘘のようだった。

冷蔵庫の中には母が明日飲むはずだっただろう酒が所狭しと並んでいた。これを飲めば母の気持ちを理解できるのかなと思った。


長くなりましたが、これが私がストゼロ狂いになった経緯でありまして、忘れたくても忘れられない記憶というか事実でありまして、2021年になってからは人の家で大量に酒を飲んでゲロ吐いて爆睡したり、感情昂りすぎて母の遺骨に抱きついて号泣したり、記憶飛ばして次の日アザだらけになっていたり、3ヶ月で10キロ近く太ったり、それなりに楽しく生活していました。

そして2021年8月の終わり、私は21歳になるわけなのですが、こんな文章を書いてしまうくらいには歳を重ねるということを悲観的に思っていて、なんとかして誕生日を迎えても20歳のままでいられる方法を模索しているわけなのです。
19歳から20歳になるときもどうか一生19歳のままでいてくれ!タイムリープしろ!と毎日足掻きながら生活していたわけですけれど、今年はそれ以上に誕生日が来ることが怖くて仕方なくて、そんな私を嘲笑うかのように毎年8月29日はやってきて、私は歳を重ねてしまうのです。
母がゲロを吐いて倒れていたあの日から私の時間は止まっているのに、時間だけが過ぎていって、私だけ取り残されたまま、もう8月が終わろうとしている。母のいない8月が。

あと2時間ほどで私は21歳拳でになってしまうのですが、=年齢歴を更新し、まともに友達にも推しにも会えない全く散々な年でありました。
得たものも沢山ありましたが、あまりにも失ったものが多すぎた歳でした。

とりあえずさっき近所のケーキ屋さんで買ったケーキを爆食いして酒を飲みながらその時を待とうと思います。酔っ払ってるので文章がめちゃくちゃですが、何年か後の私がこれを読んでイキってんな〜と思ってくれたら本望でございます。

ではまた。

2021年8月28日

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