この世で誰を愛するのか?

「本当の愛って何だろう?」小さな頃から、私はこの世に「本当の愛」があると信じて、愛を探して来ました。そして、人生において、たくさんの失望を経て、ある時、思いがけず、真理と出会うことができたのです。真理は、あちらから来てくれました。自分が探しに行かなくても、自分が心から渇望した時、真理はその人のもとに来てくれます。愛は、この相対世界にはありませんでした。でも、それでよいのです。今、あなたが探している場所に「本当の愛」は存在していないと言ったら、あなたは驚くでしょうか?私個人の愛の探究の軌跡を記しました。

この世に「本当の愛」は存在する?

私たちは誰しも、この世界で「愛」を探し求めています。
お金、権力、学力などの「力」や、肉体的、精神的な「美」を求めるのも、究極的には、私たちがそれにより誰かの愛を得て、安心したいがためかもしれません。

でも、私たちがこの世界で求めている愛、それははたして「本当の愛」と言えるのでしょうか?
私たちは努力すれば、この世界で「本当の愛」を見つけられるのでしょうか?

今日は「本当の愛」について、私が真剣に探究するようになったきっかけについて、そして、私自身のここまでの個人的な道のりを書いてみようと思います。

この世の愛の形

人は誰かを愛さずにはいられません。それは事実でしょう。そして、私たちは同時に、いつも愛への焦燥感を抱いています。この愛の探究は一体いつまで続くのでしょう。

例えば、赤ん坊は、生まれた直後から、生き抜くために母親の愛を求め、愛着を築いていきます。少し成長すれば、兄弟たちと仲良くしたり、学校で親しい友だちを作ったりするでしょう。年ごろになれば恋をして、人生のパートナーを得るかもしれません。そして、自分の子どもを持てば、多くの人は子どもに愛情を注ごうと努力します。更に孫ができれば、溺愛する人もいるでしょう。

このように、私たちは生涯、愛を求めて、いろいろな人を愛したり、愛そうとしますが、残念ながら、その愛は、年月を経ると、変質したり、失われたりします。ブッダも「全ては諸行無常である」とおっしゃいましたが、この世のものに例外は何ひとつありません。

また、時には、その愛が憎しみに変わることもあります。その変更が、いとも簡単に行われることは、自分の経験や、周りを見ても明らかです。

愛を失った時、私たちは絶望し、期待を裏切られた気持ちから、怒り狂ったり、嘆いたりします。しかし、私たちは時間が経てば、性懲りも無く、また別の場所で愛を求め始めるのです。

これが私たちの人生で常に起きていることです。そして、更に言うなら、何百回と繰り返してきた過去生でも、私たちはそれを繰り返してきているのです。

この世で愛を保持するためには、多大な努力と忍耐が必要です。私たちはどうしたら良いか分からず、心理学の本を読み漁ったり、誰かに相談してみたりしますが、それらは多少の助けにはなれど、決定的な解決法にはなりません。
こうやって、私たちは場所と相手を変えて、愛の獲得と喪失を繰り返します。

幼い頃は、愛に飢えていた。

私について少しお話しすると、私は、幼い頃から愛に飢えていた記憶があります。幼稚園に通っていた頃から、既に私にはその飢餓感があり、子ども時代の私は、世界に疑いの目を向けながらも、いつも愛の不足を埋めようと苦しんでいました。おそらく世間からはとても扱いにくい子どもだったに違いありません。

一方、私は罰せられることを恐れていました。当時、私は、教育に良いという評判の、規律が厳しいカトリック系の幼稚園に入れられていました。そこでは怖いシスターが、ようやくおむつが取れたばかりの幼い私に、毎日、祈ることを課していました。私はそのことが退屈で仕方がありませんでしたが、困ったときには、家でも祈り、優しいマリア様に答えを求めるようになりました。

その後、私は成長する過程で、いろいろな人と出会いました。しかし、大人になってからも、愛への飢餓感は全く解決しませんでした。年ごろになると、私は内臓の病気で長期入院し、その後も慢性化してしまったので、健康面でも苦しんでいました。

その頃、私はいつの頃からか「死にたい」と考えるようになりました。私の胸の辺りには、いつもぽっかりと10センチくらいの穴が空いており、そこをすきま風が通り過ぎていくのです。時間も重たく感じられ、ただ虚しく過ぎ去るだけでした。

私は成人したら、なるべく早く結婚しようと考えていました。愛を摑めば幸せになれると思っていたのです。そして、更に子どもを持てば、自分の内側から「本当の愛」が溢れ出て、自分を満たしてくれるのではないかと、ひそかに期待していました。私はどうしても、胸の真ん中にある穴を埋めたかったのです。

結婚して、子どもも産んでみたけれど....

そして、私は望み通り、友人の誰よりも早く結婚し、子どもを持ちました。しかし、残念ながら、それらは私が期待していたものと全く違っていたのです。

子ども達は、確かに自分の命より大切に思える存在であり、最も優先される愛の対象ではありました。
でも....、愛自体は苦悩そのもので、決して愛に満たされた生活ではありませんでした。

子育てに四苦八苦し、私は「本当に子どもを愛せているだろうか?」と、苦しむ日々を送るようになりました。

子育てほど、自分と向き合い、自分の心の奥底を見せつけられる仕事はありません。そして、これまで自分が触れないで済んでいた、その心の奥底には、愛情深い自分どころか、醜く、恐ろしい自分がいたのです。

世間から見ると、ごくごく普通の母親に見えていたかもしれません。しかし、私の子育てにおける苦しみや罪悪感は深くなる一方で、私は挫折感から「本当の愛にたどり着けないのではないか?」と絶望していました。
私は、まるで自分が地べたを這いずり回っているように感じ、それでも「愛というものをなんとか確立しなくては」という思いから、子育てに専念する母親として、自分を捧げていました。

そして、その苦悩を抱えながら過ごしていたある日、私は思いがけず、ある霊的指導者と出会い、自分の世界がひっくり返ったのです。

本当の愛とは....

霊的な出会い、それは正に神のお姿をした方でした。私はたまたま、とある本からその方のことを知り、ネットでその方のことを調べ始め、次の言葉に出会ったのです。

正確ではありませんが、確かそんな文言だったと思います。
私は頭を殴られたかのように、衝撃を受け、混乱しました。なぜなら、私は苦悩を抱えながらも、それでもなんとか子ども達のことを愛しているつもりだったからです。

「私が子ども達に抱いている愛は、本当の愛では無かったんだ....」
絶句しました。

確かに振り返ってみると、私の他人に対する愛は、誰であれ「増減」していました。私は常に人を「選別」し、この人にはこのくらい、あの人にはこのくらい、そしてある人には意図的に蛇口をキュッと閉め、一滴も愛が出ないようにしていました。

私は、自分が必死で築いてきたつもりだった子ども達への愛が本当の愛では無いことを知り、その場で号泣しました。
もし、私が本当に自分の子どもを愛しているならば、私は他の人のことも同じように愛しく思うはずなのです。「私は本当には子どもを愛していなかった....」

「それならば本当の愛とは一体なんだろう。私はそれを識ってみたい....」私は強く思いました。
そして「この偉大なる方から頂いた問いかけを私の宿題として、私は生涯をかけてこの答えを見つけたい」と思ったのです。
それから私の真剣な霊的探究が始まりました。

この日のことは、今でもはっきり覚えています。その日のことを思い出すたびに、今でも、その方の「大いなる愛」に、私は涙が溢れます。

私はその方に、直接、お会いする計画を立てていましたが、その方は、ご自分で死期を預言され、肉体を脱がれたので、その方と直にお会いし、感謝を伝えたいという、私の望みは叶わなくなりました。

その後の長い旅

その後の私の愛の旅は、紆余曲折しながら進んでいきました。

子ども達が手がかからなくなったので、働き始めたことから、生活面では慌ただしくなり、その中で多くの人との愛と憎しみが繰り広げられ、苦悩していました。

霊的には、気功の修行にはまり、歎異抄に夢中になり、その後、サーンキヤ哲学に出会い、ラージャヨーガ、ギヤーナヨーガの修行にのめり込み、新約聖書を読みました。そして、霊的な本に出会うと、次から次へと夜も眠らず、読み漁りました。

日々の生活では、毎日朝晩、深く瞑想し、週末はできるだけカトリック教会で祈り、定期的に断食をしました。また、仕事の時間が空けば、インドを旅し、何人かの聖者に会い、不思議な体験もたくさんし、その過程で福音も数多く頂きました。

しかし、ある日を境に、私の学びは何の前触れもなく、ピタッと止まりました。
「何かを識りたいという気持ちが、もう全くない....」私は突然そう感じました。20年以上も必死で追い求めて来たのに、なぜか識りたいことが何ひとつ思い浮かばなくなったのです。

その頃の私は、愛に完全に満たされてはいませんでしたが、人と争うこともほとんど無くなり、長年、抱えていた病気も、ほぼ姿を見せなくなっていました。

私は、突然、世俗に戻らされました。相変わらず、日々、いろいろなことは起こりますが、私は霊的なことにあまり興味を持たなくなり、本を一切、読まなくなり、修行もやめ、日に一度だけ、瞑想をささやかに行なうだけの日々となりました。更に、私には世俗の娯楽が新鮮に見え、時間ができれば、そこに時間を費やしていました。

そうして、1年ほど経った頃でしょうか。そんな生活をしていた時、奇跡講座の本に出会ったのです。

奇跡講座の本を読み、驚きました。
なぜなら、子育てをしていた時に、神なる方から頂いた宿題への「最終回答」がここにあったからです。

答えを見つけ、私はハッと目が覚めました。光が差し、歓びが心の奥から湧いてきました。そして、謎が全て氷解したように感じました。
こうして再び、奇跡講座を中心に、私の霊的な学びが始まりました。

現在、私は学びを継続中ですが、この探究は私のこの肉体が死んでも続くでしょう。
しかし、今では絶対的な愛が在ることを確信しているので、以前とは異なり、この夢を見ていることへの嫌悪感も無くなり、受け入れられるようになりました。

自分の親、伴侶、子どもなど、その存在が自分にとって近しいものであればあるほど、人生の苦悩は深くなりますが、私は奇跡講座と出会えたことで、苦労しながらも、ようやくその人達と真の普遍的な関係を築けつつあるように思います。

まだ愛に充分満たされていなくても、どうすればそれを選択できるのか、私は方法を知っているのです。

(おわり)

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