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『明日ちゃんのセーラー服』から考える印象派美術 ~「超作画」と「不在の萌え」の西洋美術的読解~

0.はじめに

 『明日ちゃんのセーラー服』を初めて観た時に感じたのは、圧倒的な”届かなさ”だった。この作品は僕からはあまりに遠く、そして干渉を拒むほどに美しい。はっきり言って、これは「エモい」と形容して良い作品ではないと直感的に悟った。

 この記事は、主に舞風つむじ氏のnote記事を軸としながら、作品における重要ポイントである「作画」に注目し、虚構世界におけるリアリティについて考える。

 その際、(一応、自分が大学で専門にやることなっている)西洋美術史における写実主義→印象派の流れを補助線とする。ただし僕はまだまだ初学者であるため、内容の正誤について指摘があればぜひお願いしたい。

 続いて、その作画がもたらす20年代的な「萌え」について、主に「青春ヘラ」という独自概念にまで結びつけて考えてみたい。特に、同クールに放映された対照的な青春アニメである『その着せ替え人形は恋をする』についても着目する。

1.超作画について

 アニメ『明日ちゃんのセーラー服』の面白い点は、作画レベルが何度も変化することだ。舞風氏も指摘する通り、そのレベルは主に以下のように分けられる。

①一般的な作画

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アニメによく見られる普通の作画。木崎さんかわいい。


②良作画

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気合いの入った緻密な作画。①より明らかに時間が掛かっている。木崎さんかわいい。


③超作画

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原作漫画の表紙レベルの作画。めちゃくちゃ時間が掛かってそう。特に、光の表現が独特で写実性がとても高い。もはや不気味。木崎さんかわいい。

 ちなみに、「超作画」の単語は、「『明日ちゃん』と作画、写実化の不到達、その世界の自立性について」を書かれたはいり氏より拝借した。こちらもぜひ読んでみて欲しい。

 アニメでは基本的に①→②→①の順に物語が進み、稀に③が挿入される。
 ①をベースとしながら、フェチズムを感じるシーンには主に②が使用され、フェチズムの上に「感情の揺れ動き」などの要素が加わって特段重要なシーンになると③が登場する。加えて、①→②→③の順に時間の流れがゆっくりとなる(一枚の使用時間が長くなる)。この分類は舞風氏も行っている通りだ。

 さらに付け加えるならば、超作画や良作画は線の細さが際立つ。つまり、輪郭がだんだんぼやけてくる。この特徴は、1860~90年代に流行した印象派にも当てはまる。

2.新古典主義、ロマン派、写実主義から印象派まで

 印象派が登場するまでの流れを軽く説明しよう。19世紀、フランス革命と産業革命を経て美術界でも革命が起こった。従来の貴族的で不道徳なテーマを扱うロココ美術に対抗しようとした”新古典主義”が台頭したのだ。新古典主義はその名の通り、かつての理性的・倫理的な古典的美術を取り戻そうとする運動だった。

 やがて新古典主義を追い抜いていくのがいわゆる”ロマン派”だった。「ギリシア美術こそ美の姿である」と言い切る新古典主義とは一転、ロマン派の信念は「激情的でドラマチック」だった。最も有名なロマン派の絵画である《民衆を導く自由の女神》を見れば分かる通り、迫力と情熱を伴うダイナミックさこそがロマン派だった。代表的な絵画とされるドラクロワのタッチは荒々しく、それまでの保守層からは非難囂々だった。

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https://www.britannica.com/topic/Liberty-Leading-the-Peopleより

 そのロマン派に対抗するように出てきたのが”写実主義”だ。ただし注意したいのは、一般的に言う写実主義の「写実」とは、技法によってリアルな絵を目指すという意味ではない。写実的であるのは、あくまでテーマの話だ。ミレーの《落ち穂拾い》は有名だろう。農民のリアルな生活に焦点を当て、悲惨な姿や貧困などを美化せず描いた意味でこれらの群は写実的だと言える。

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http://blog.meiga.shop-pro.jp/?eid=268より

 「リアル」の意味で写実主義を指す場合、それはバルビゾン派に象徴される”自然主義”が当てはまる。こちらは、色彩よりスケッチを重視して断片的な自然風景を現実らしく描いたという点で確かに「写実的」と言える。トロワイヨンの《家畜の群れ》あたりが分かりやすいだろうか。

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https://www.fujibi.or.jp/our-collection/tour-of-our-collection/barbizon-school-and-impressionism.htmlより

 さて、写実主義の後にはいよいよ印象派が登場する。印象派の最大の特徴は、「まったく新しい光の表現」だ。ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》は誰もが一度は目にしたことがあるだろう。

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https://onl.sc/MmpkmC3より

 この絵の斬新なところは、「見たままの表現」に拘った印象派らしく、木漏れ日が再現されている点だ。全体に太めの筆で白をぼかして、余白部分にある木々を鑑賞者が想像できるようになっている。

 印象派は、光の変化でものの見方が変化することに気付き、その変化こそが美しいと主張した。ルノワールの絵を追いかければ一目瞭然だ。だが、光の技法を突き詰めるほど、現実的な絵画とは離れていく。具体的には、形(線)がだんだん曖昧になる。第二回・第三回の印象派展付近に描いた《ぶらんこ》が分かりやすい。

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https://www.musey.net/2431より

 もはやはっきりとした輪郭は保っておらず、全てタッチの集まりで描かれている。「見たままの表現」を突き詰めれば突き詰めるほど、むしろ見たままではなくなっていく矛盾に陥ってしまうのだ。

 さて、ここで明日ちゃんの話に戻ろう。

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 超作画がリアルに見えるのは、線の細やかさや丁寧なタッチのおかげでもあるが、それ以上に光の使い方が鍵なのではないかと僕は思う。しかし印象派で確認したように、そのリアルさはある地点まで上昇したのち、急激に下降する。複数人が超作画を「もはや不気味」と評しているのを見るに、おそらく超作画は不気味の谷に区間に留まっている。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%B0%97%E5%91%B3%E3%81%AE%E8%B0%B7%E7%8F%BE%E8%B1%A1より

 そして、『明日ちゃんのセーラー服』は、①普通の作画→②良作画と写実性が増した後に「不気味の谷」に到達する。一見、①→②→③の流れで我々は加速度的にリアルさを感じるように思うが、実際は最後に突き放されるのだ。作画マジックによる夢は、作画マジックによって覚める。舞風氏のnoteを引用しよう。

 ひとまず言えることは不気味に感じてしまうからこそ、我々は『明日ちゃん』の世界との断絶、どこか現実味のある「虚構」との明確な差異、そして明日小路の不在をまざまざと突き付けられること。そしてこの不気味さがあってはじめて、③の作画は我々を突き放すのだ。だから、そこに「萌え」が生まれる余地ができる。

続いて、はいり氏の結論。

 このようにして「あちら側」のパースペクティヴを挿入することは断絶を生む。僕たちが見ていた通常のシーンは、よい作画によってたしかに見えるが、それはあの世界のデフォルメに過ぎないと、その世界の深層を覗かせる。キャラクターと世界の同一性を担保したままより高解像度の階層へ導く。「超作画」をして写実化していくことは、キャラクターの視覚的リアリティをこちら側に引き寄せることではなく、むしろその延長線がこちらに到達しないことを示した。それは断絶に他ならないが、だからこそあの世界は美しいのだ。あるいは、女子校を美化しすぎで「現実」がないという指摘についても、それは当然と言える。視覚的段階―ただ見た目のレベルだが、アニメーションを成立させる根本的段階でもある―からリアリティの異なる世界について、どうして現実のリアリティが適用できるだろうか?

 ここまで若干違う路線を辿って明日小路の住む世界と我々の住む世界の断絶を見てきたが、結論は同じだ。独特な作画によりこの断絶は生まれ、「不在」を認識した我々は、萌えを感じる。

 ③の「超作画」の例を他にも見ていると、逆光表現が多いことに気がつく。明日ちゃんのセーラー服は、光の表現が懐かしくも新しいアニメだと感じる。その用法は、最近でいうと『映画大好きポンポさん』によく使われている。

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 これらを見て、マリー・ドニーズ・ヴィレールの《マリー・ジョゼフィーヌ・シャルロット・デュ・ヴァル・ドーニュ》を想起したのは僕だけではないはずだ。作者不明で何度も解釈が変わっているためヴィレールの作品かどうか怪しいところではあるが、もし正しいならばヴィレールの逆光表現を用いた人物画は、(時期的には新古典主義~ロマン派にあたるにも拘らず)光の表現として卓越した先見性を持っている。

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http://blog.livedoor.jp/a_delp/2022-04-15_Metより


3.新しい萌えの形

 ここまで、印象派の流れを援用して違った切り口で『明日ちゃん』と現実の断絶を確認したが、そのことがもたらす思想的特徴にも言及しておこう。

 まず、舞風氏のnoteの序文を軽く整理しよう。
 氏はゼロ年代的な「萌え」を、斉藤環が言う「作品内の虚構と我々のいる現実を接続する、倒錯した性的欲求」としての「萌え」と、「キャラの属性をデーターベース消費する、動物的な態度」としての「萌え」の2つであると考え、それらがテン年代で標榜されていた「萌え」とは異なるのではないかとはじめに述べる。

 氏にとっての「萌え」とは、「”不在”へ向けられる諸々の感情」と要約できる。所有の不可能性目を向けた結果立ち現れる感情、それが彼にとってのテン年代的な「萌え」だ。具体的には

虚構のキャラクター、作品空間に対して”その不在性を十分に認識した上で”抱かれる種々の感情

と説明されている。

 さらに言えば、ゼロ年代的な「萌え」は現在、その名を「推し」に変えているとも述べられる。そんな中、なぜ氏は『明日ちゃんのセーラー服』という作品を称揚するのか。それは、明日ちゃんがテン年代的な「萌え」を継承しつつ20年代的な新しい価値観も組み込んだニュータイプの「萌え」であるからだそうだ。

 超作画はそのほとんどが対象をまなざすキャラの視点から描かれており、それをインストールすることによって彼女たちが直に見ている世界に触れることができる。だが超作画からふつうの作画あるいは良作画へレベルが切り替わった瞬間、我々は改めて虚構性を意識させられる。これは、主にテン年代的な萌えの特徴だ。作品世界から疎外されて初めて、その萌えは立ち現れる。これが、明日ちゃんのテン年代的要素。舞風氏がテン年代の正当後継者と呼ぶ由縁だろう。

 一方で、明日ちゃんの新しい萌え要素は何かと言えば、ベクトルの異なる虚構を二種類登場させることで虚構内のまなざしが整理され、テン年代と20年代の隔たりも把握が可能ではないか、というのが舞風氏の論だ。

 それでは最後に『明日ちゃん』のどこがアップグレードされているのかについて考えていこう。10年代の「萌え」と異なっている部分はどこか。
 それは前節で述べたように、虚構の不在性を認識する手段である。フィルターを通したまなざしを視聴者に与えることで、「虚構(我々が”見させられているもの”)」とそのフィルターを外した「虚構(虚構本来の姿)」を明確に区別することを、『明日ちゃん』は可能にしているのだ。簡単に示せば、
「現実(画面の前)-虚構(キャラクターの視点)」
 という構造のズレを生じさせることで、新たに虚構の不在性を創出している。

 この後、氏は10年代には敢えて意識せずとも認識できていた虚構と現実との隔たりを改めて描く必要がでてきた理由として、SNSの浸透を挙げている。このあたりの議論は、以前僕が書いた『ぼくらに感傷マゾが必要な理由』にまとめたつもりなのでそちらを参考にしていただきたい。

 SNSをはじめ、様々な要因が手伝って虚構と現実の区別はあやふやになった。その結果生じたのが「青春の全体主義」だった。

 僕は大学に入ってからアニメやノベルゲームに耽溺し始めた人間で、それまでは大衆文学や邦ロックばかり摂取していた。いわゆるオタクコンテンツとはあまり近い位置にはいなかった。だから、扱いとしては「ネオ・オタク」なのだが、そういった人の特徴として、欲望の矢印が「2次元→3次元」というのがある。

 テン年代的な萌えを志す人々は自分がアニメの世界に行きたいという「3次元→2次元」の欲望があったが、青春ヘラに共感するような20年代的感性の持ち主は、「アニメやドラマみたいな青春が(現実で)起こったらなぁ~」と言って「2次元→3次元」を標榜する。

 お分かりの通り、僕の提唱する「青春ヘラ」と舞風氏が取り戻そうとしている「萌え」は、実はまったく正反対の考えだ(と言いつつも、僕は『明日ちゃん』が好きなのでにやにやしながら観ていた)。

 そのことに対する理解を深めるため、『明日ちゃんのセーラー服』と同じクールで放映された『その着せ替え人形には恋をする』についても語るべきだろう。

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https://bisquedoll-anime.com/より

 note内でも触れられたが、僕は正直言って明日ちゃんよりずっと着せ恋に熱を上げていた。2週間ほど、起きたらまず「喜多川海夢」「海夢ちゃん」「リズきゅん」「クロエ」などのワードで検索をかけるルーティンを採用していたほどだ。アニメの1話を見た翌日には漫画を全巻買っていた。

 感傷マゾ研究会を主催し青春ヘラ的なマインド(20年代的感性)を持つ僕が『着せ恋』に注目し、負けヒロイン研究会を主催し「萌え」の復権を志す(テン年代的感性)舞風氏は『明日ちゃん』に注目している事実は、おそらく重要な何かを示唆している。

 常々思っていることがある。喜多川海夢(着せ恋のヒロイン)は存在するが、明日小路は存在しない。
 この「存在/不在」に対する感性は、僕のような人間と舞風氏のような人間を分かりやすく二分している。

 そしてさらに言えば、この「存在/不在」の問題こそが、先に紹介した西洋美術史におけるロマン派から写実主義に至る流れに当てはまりそうな気がするのだ。

 ロマン主義は「ドラマチック」の語からも分かるとおり、現実にはあり得そうもない激情的な人々を描く。これはテーマ的に虚構性が高いという意味で『明日ちゃんのセーラー服』の方だ。

 写実主義はテーマがリアルでないといけない。『着せ恋』のシチュエーションはリアルか否かで言うとまったくリアルではないが、少なくとも相対的に明日ちゃんよりは現実味がある(共感できる)。

 テン年代から20年代にかけて、ロマン派から写実主義への転換のような流れが、日本のエンタメでは起こっているのではないか。少なくとも、青春に関する作品はその潮流があるように思える。

 人々が「作品」をどう捉えるか、の基準がもう変わってしまったのだ。フェミニズムが作品に対して現実的な規範を求めて批判するのも、写実主義の台頭が影響している。

 そんな状況を打破する作品として、たしかに『明日ちゃんのセーラー服』は素晴らしい。タイムラインのテン年代オタクが歓喜するのもよく分かる。


4.フィクションにおけるリアリティ

 ところで、「超作画」によってもたらされるリアリティは、我々が明日小路を身近に感じるための装置としてだけ機能しているわけではない。ここに来て今までの論をすべてひっくり返すようなことを言うが、作画のリアリティと作品のリアリティは別のものではないかと僕は思っている。1章は、舞風氏の論に対する違った切り口を提示したまでであって、僕個人としては明日ちゃんが突きつけてくる虚構性は他にもあると思っている。

 僕が「喜多川海夢は存在するが、明日小路は存在しない」と主張した理由は作画の話ではなく、ここに詰まっている。フィクションにおけるリアリティとは何か。それは、我々と共有するコンテクストの有無である。作画の緻密さでは決してない。

 演劇を例に取れば分かりやすいだろう。舞台における”リアルさ”は、現実における”リアル”とはやや異なる。日常で起こりえる可能性が高い=リアルということではない。例えば、マクドナルドでJKが喋っていそうなこと(何も知らないけど、コムドットの話とか?)を、放課後のマクドが舞台の演劇でしたからと言って、それがリアルだと感じるわけではない。

 (スタァライトなどの特異な作品でない限り)、アニメ作品と我々の間には確かな壁があり、作品内のキャラクターと鑑賞者の間にコミュニケーションは発生しない。にも拘わらず、我々はフィクションの内部における”リアルなシチュエーション・セリフ”と”リアルでないシチュエーション・セリフ”を識別することができる。これは明らかに矛盾している。

 その矛盾のひとつの答えが、やはり「コンテクストの共有」なのだと思う。鑑賞者は作品の前に立ち、「自分自身を作品内に投影する」、あるいは「作品内の枠組みを現実に投影する」のいずれかでコンテクストの共有を図ろうとする。それにより我々はキャラクターと同じ共同体を生きていると錯覚し、鑑賞体験が成立する。

 『明日ちゃんのセーラー服』は、設定において少しもリアルでない。言い方を変えれば、自分を作品に投影することも、作品世界を現実に投影することも難しい。それは単に僕が(おそらく)女子中学生ではないことや女子校育ちでなく共感できないという理由が大きいが、この作品にはそれ以上に我々を阻む何かがある。それはきっと、完成され尽くしていて改良を良しとしない彫刻品のようなものだ。

 一方、『着せ恋』は、投影が可能だと思う。僕のように友達が少なく女性とのコミュニケーションでドギマギしてしまうような輩は五条くんに感情移入して鑑賞すれば良いし、もしくは冴えない現実世界に喜多川海夢を幻視しても良い。

 設定においてリアリティが発生しない状態で緻密な「超作画」が差し込まれるとどうなるのか。「不気味の谷現象」に陥る。ここまで来ると、超作画のリアルさはむしろ不気味さを強調することになる。

 もし仮に、明日小路というキャラクターが高校生で、ひな人形師を目指す男の子とコスプレ衣装を作る設定だったならば、この超作画はきっとリアリティを担保するものとして機能する。だがいくら作画がリアルになろうとも、その作品世界は我々を寄せ付けず、圧倒的に遠く美しいものとして成立する。「着せ恋を観るとなんだか辛くなるが、明日ちゃんはそうならないから観られる」と思えるのは、コンテクストの共有ができるかどうかに関係している。

5.おわりに

 根拠のない感覚だが、最近の中高生は作品に「共感できるか」という評価軸が非常に強く働いているように思う。それは青春の全体主義やSNS問題に大きく関わっており、嗜好するジャンルにも関わる。

 なんだか難しい話になったが、『明日ちゃんのセーラー服』の最大の功績は、”今日の明日ちゃん活動”(アケカツ!)や”明日ちゃんスペース”といった、オタクが作品で連帯しあう懐かしい風景を取り戻したことだと思う。それこそがテン年代に萌えが果たしていた役割で、舞風氏が復権したいものなのだろう。だからこそ、自分の周りで明日ちゃんはこれほどまでに流行った。

 瞬間を永遠に。”時間が止まればいいのに”と願う明日小路もきっと感傷マゾなのだ。



※アニメ『明日ちゃんのセーラー服』の画像は、すべて公式ツイッター(@AKEBI_chan)より引用した。

【参考文献】
早坂優子著、『鑑賞のための西洋美術史入門』、株式会社視覚デザイン研究所、2006年
秋山聰、田中正之監修、『西洋美術史(美術出版ライブラリー 歴史編)』、美術出版社、2021年
平田オリザ著、『演劇入門』、講談社現代新書、1998年
ケンダル・ウォルトン著、田村均訳、『フィクションとは何か』、名古屋大学出版会、2016年




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