エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳

 或る種ユートピア的な夢想的言語としての自由ではなく、近代的な社会の発展が人々に自由を与えるが、その自由には正負の両面が存在するのだというところから話が始まる。

 つまり、自由とは物事を自己の意志によって決定「することが出来る」という側面と、物事を自己の意志によって「決定しなければならない」という両面が存在するのである。
そしてここから……商業の発展によって巨大化していく資本の営みが、人間個人にかかる作業と実態としての会社・企業・事業の動作に乖離が生じていく過程をあらわにしている。

 映画『モダン・タイムス』でチャップリンが戯画的に表現したように、人は自分が雇われて行う作業が果たしてどのような意味を持つのか、それによって自分がどのように社会と結ばれているのかが理解出来なくなってしまう。
これは明確に労働者から自己の創意工夫の機会を奪い、ひいては労働者のアイデンティティそのものを揺るがしてしまう。壮大な一つの企業・事業という機械にパーツとして組み込まれた個人は「することができる」が失われ「しなければならない」という負担がのしかかってくる。
そうした様々な要素、過程からかつて父祖がそのために命をかけて勝ち取ったはずの自由という権利の価値は揺らぎ、負担を投げ捨てるために民衆は「自由からの逃走」を図るのである。

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