アトウッド『侍女の物語』斎藤英治

 私はこの作品の中身について言及するにあたり、表現の自由と自らの誠実性と政治的一貫性の担保のために、個人としての最大限の誠実さをもって、一読書家としての誇りをもってこの一冊を評することをここに宣誓するものである。

この作品はいわゆるディストピア小説の系譜に連なる作品であり、根本的にはフーコーの言う”生-権力”について表現を行ったSF小説であると言える。
女性の人権が侵害され、子供を産むことを至上命題とされたこの世界において、主人公であるオブフレッドは幾つもの夜を重ねてそれを過ごす、という構成については評価し得る部分が存在するであろうと私は考える。
その上で……

その上で非常にグロテスクであると感じるのは、これを語るオブフレッド自身が人種差別の意識を持ち、社会的差別を受け人権を侵害されているということを暗に語る彼女自身が別の場面で差別主義的であるということである。

 無論、これを擁護する上で「リアリズムの観点からそうした発言を入れざるを得ない」という言い回しも可能なのであろうが、そうした「言い訳の余地の存在」も含めて実に作為的で、そこに介在する評論上の圧力・表現の自由に対する抑圧的態度を私は見出さざるを得ない。
つまり、この作品に対する率直な告発・批判行為自体が、女性差別的行為・思想に繋がるという短絡的な接合をなし得るが故に、率直な評論を行うことができないという作品構造・社会的圧力を生じさせるものであるということである。

 無論、この作品が1985年に発表された作品であるという、時代の古さを鑑みるべきであるというのは事実であるが、少なくともいわゆる”生-権力”に対する告発と物語性のバランスという視点においては、現代日本で生まれた伊藤計劃『ハーモニー』の方が作品的完成度であれば上であろう、と私は考える。
そうした現代人の視点からみたこの物語は、時代に取り残され、その告発性・告発の能力を大幅に減じた作品であり、オーウェル『1984年』やハクスリー『すばらしい新世界』で見られた、時代性を超越したディストピア文学の枠組みに入れるのはちょっと無理があるのではないかと思う。

……そして、これらの率直な評論行為が、一種の覚悟をもって行うものでなければならないという文芸評論の世界観について、私は一つの悲しみを覚えざるを得ない。わざわざ、あのような物々しい前置詞抜きには、この作品は評論出来ないのである。

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