見出し画像

言の葉の剣 第3話

 外は夜が始まっていた。明るい街の中を人々は思い思いに歩いている。
 どうしよう。
 帰らないといけないのはわかっている。母さんも心配しているだろうし、何も考えずに眠りたい。眠れればの話だけど。
 でも何もない状態じゃ、歩いて帰る他ない。それも困る。疲れ切っているし、またリベルがやってきそうだ。なんだか瞬間移動しそうな不気味さが奴にはある。
 仕方なく戻ろうとして、オレは立ちすくんだ。
 警察署には春島がいる。
 同じ塾だねって、美園樹くんも頑張ってるんだって、春島は笑ってくれた。学校帰りに見つけた野良の子猫3匹を見捨てられなくて、引き取り手を学校中で探してた。写真を見せてもらったんだ。茶トラのとびきり可愛い子たちで、1匹は家庭科の先生に、1匹は同学年の女子生徒にもらわれて。最後の1匹は今も春島の家で暮らしてる。
 全部覚えてる。女友達の恋愛相談から勉強の仕方まで、春島の声は全部。
 オレは乱暴に目をこすった。手を伸ばした春島の最後の姿はオレを打ちのめし、笑顔の思い出はオレの心臓を容赦なくえぐる。
 ビルの壁にもたれかかったままズルズル座り込み、そうしてオレは20分ぐらい動けずにいた。
 不意に地面が揺れ、ドォンという鈍い音が街に響いた。
 霞んだ目で辺りを見る。またドラゴンか?
 勝手にやってろ。
 オレは投げやりな気分で考えていた。
 殺したいなら殺せよ。物語はもっと希望に溢れたものであっていいはずなのに、リベルが話したのは戦争とか兵器とか、そういうことだった。現にオレは春島をあっさり死なせたわけで、オレが生きてたって結局人が死ぬだけだ。
 ざわざわと人が話していた。
「なんでしょうね」
「さぁ……」
 早く逃げろ。もうすぐ、手に負えないモンスターがここに来る。
 地響きが再び轟いた。
 映画で怪獣がのしのし街の中を歩く光景を見た時、オレは踏みつぶされる人間のことをあんまり考えなかった。でもあの手の映画はもう見られない。
「ちょっと、警察署だって!」
 おばさんの声に、オレはぼんやり顔を上げた。警察署?
 数人が立ち止まり、スマホを見ている。
「近くない?! 警察署っていったら、ここから……」
 なんでだ? オレはここなのに。そう思ってから我に返る。警察署には春島がいる。『筋書き』を戻すというリベルの言葉を思い出す。もしかして、オレじゃなくオレに関係のあるものを破壊しようとしているのか? 『筋書き』を戻させないために。
 オレはなんとか立ち上がり、力を振り絞って走り始めた。

「避難してください! 誘導の指示に従ってください!」
 拡声器を通した声が聞こえていた。人がどんどん走ってくる。オレは構わず角を曲がり、息を呑んだ。
 太さ数メートルはあろうかという巨大な蛇が、警察署に巻き付いている。そいつは頭をもたげ、逃げ惑う人々を赤い目で見下ろしていた。
「どうなってんだ……」
 茫然とつぶやく。胴体の隙間から窓が見え、絶望した人の顔がのぞく。
「建物に近づかないで! 指示に従ってください!」
 消防隊員が拡声器で怒鳴っていたが、次の瞬間、蛇は巨大な頭でその人を薙ぎ払った。
 やばすぎる。オレは警察署を見上げた。講堂は最上階だ。どうやって行けばいい?
 入れる所を探そうと建物の側面へ回り込んだ時、一瞬光が走った。
 ビシャッという水音がして、蛇の体からシュウウと煙が上がる。もがくように巨体がうねり、鱗の流れがさああっと横に動く。
 今の何だと思った時、風を切って蛇の頭が降ってきた。とっさに転がって鼻面を避ける。続けてもう一撃。避けきれない!
 瞬間、ザバァッと水が飛び蛇がひるんだ。憎しみのこもった赤い目がオレたちの方を睨む。その顔からさっきみたいな煙が上がっていた。
 倒れ込んだオレの前には、バケツ片手に蛇を睨む、春島の兄がいた。

「あ、あの……」
「おっせぇよお前は! なんでいつもギリギリなんだ!!」
 怒鳴り散らされ、オレはひぇっと首を縮めた。春島の兄とは今日が初対面のはずなのに、なぜかその怒鳴り声には馴染みがある気がした。
「早く立て!」
 バケツを持ったまま、彼は全力で走っていく。オレはもがくように立ち上がり、それを追った。
 妙な気分だった。この背中には見覚えがある。以前も、このすらりとした長身を追って死にもの狂いで走ったような。
「殊波!」
 名前を呼ばれると同時に何かが放り投げられる。とっさに受け止めた時、すごい勢いで迫ってきた蛇の舌が、首筋を掠めた。
「お前右な!」
 怒鳴り声がオレの耳に届くと同時に、オレは右へ、 つむぐは左へと瞬時に分かれる。勢いあまった蛇はそのまま道路を直進していった。
 紡? 自己紹介はされてないのに、どうして今、オレは春島の兄の名前を思い浮かべた?
 考えている暇はない。紡は濃いインクを作るつもりだ。リュクス戦役の時と同じように。オレは蛇を足止めしないと。
 走りながら、投げられた本を見る。どこを開けばいいか、オレはなぜか知っている。終盤に近いところをめくり、文面に指を走らせる。腹の底に力を込めて、ひとつひとつの言葉に集中して、オレは読む。
『誰にも彼女を渡さない。その誓いを阻む者は、誰であろうと容赦はしない。この槍は、お前の目にも深々と突き刺さるだろう。
 見るがいい。七尺の柄、研ぎ澄ました刃。この穂先こそ、お前がこの世で目にする最後の光』
 建物を回り込み、蛇の頭が迫ってくる。本の中から長い柄が突き出てくる。オレはそれを掴み、本から引き抜く。
「来い!」
 叫ぶと同時に、オレは槍を地面に立てて身を伏せた。蛇の顎から腹が、槍の上を勢いよく走っていく。縦に裂けた体から血やら何やらがぼたぼた落ちていたが、オレは構わず両手で槍を突き上げた。
 シャアアア!という気持ちの悪い音を出しながら、蛇は横のマンションに巻き付き始める。屋上まで上がると、怒り心頭という顔でオレを見下ろす。
「削いだか?」
 唐突な声に、オレは振り返らず答えた。
「腹は裂いた。後は目玉にこいつを突き刺す」
「よし。俺もこれをぶっかける」
 どこで作ってきたのやら、バケツには真っ黒い液体がたっぷり入っていた。
「早いな」
「うるせぇ。早く投げろ」
 蛇が頭を伏せた。攻撃の構えだ。舌がべろりと動く。赤い目が街の灯りに煌めく。
 奴の首元がたわんだその一瞬! オレは渾身の力で槍を投げた。
 ビュッという音が耳元で鳴る。奴の目から血が迸る。大きな口がこっちへ迫ってくる。
 やられる!と思った時、隣で紡がバケツを振った。黒い液体がもろに蛇の頭にかかる。
 蛇の頭がぶわっと空間に溶けた。そのまま体から尻尾まで、実体を保てなくなった蛇は消えていく。
 オレたちはしばらく、何もなくなった空間を眺めていた。
「……インク、どこで作ってきた?」
 オレの問いに、紡が不貞腐れたように答える。
「そこいらに涙が落ちてたから、すぐできた」
「オレの涙で作ったのか」
「他に何がある。美祝を失った俺たちに」
 何もないな。
 オレはそう呟いた。

「で? 固着が解けてないけど、どこまで思い出したんだ」
 紡の声は静かだった。
「『固着』ってなんだ?」
「そこから説明しなきゃならないのか」
 バケツを地面に下ろし、紡は溜息をついた。
「出したものを現実に固定させる処置だ。『読み手』の集中力とは関係なく存在を続けさせる方法」
「そんなのあるのか」
 紡は一瞬呆れた顔をしたが、諦めたように肩を落とした。
「そうだよな。お前はあの時、全部使い尽くしたんだっけ」
 オレから本を受け取りながら、紡はうつむいた。
「怒ったってしょうがないのはわかってる。これはお前と俺が2人で始めたことだ。お前の婚約者と俺の妹……美祝を守るために」
「オレたちが、始めた?」
「そうだ。俺とお前は共犯さ。追手がついに俺たちの居場所を突き止めた。それだけだ」
 哀しい目で、紡はオレを見つめた。綺麗な目だ。美祝と同じくらい澄んでいた。
 オレは……そうだ。ずっと前から美祝のそばにいた。守りたくて、でも守れなくて。
 美祝が王宮で刺された時も、オレは遅れた。
 あの時から、何かが狂ったんだ。
 オレは紡が書いたトウジュ国──地球──に関するノンフィクションの『本』を使って、3人をこの世界に固着させた。
「何度繰り返しても、オレたちは美祝を守れない」
 絶望の呟きがオレの口から零れていく。
「それはそうさ」
 涼しい声が突然割って入った。オレと紡はとっさに振り向く。
 リベルが、微笑みながら立っていた。
「さて、罪人たちを処刑するよう仰せつかって来たんだけど。やっぱり2人揃うと強いなぁ」
「リベル。お前だったのか」
 紡が吐き捨てるように言う。
「そうか……つまりあの時、美祝を刺した黒幕は……」
「人聞きの悪いこと言うなよ。僕はただ依頼されただけだ。殊波くん、君がタンジュの姫を素直に受け入れるように」
 わけのわからない怒りが腹の底で膨れた。何か、自分ではどうにもできない政治の大きな陰謀が絡んでいた気がする。リベルの言葉の奥には、もっと何か……。
「てめぇが来たってことは、さっきの蛇も、美祝を殺したドラゴンも、レチの仕業だな」
 憎しみのこもった声で、紡が低く言った。リベルが肩をすくめる。
「レチか。あの子は二度も失敗した。殊波くん、僕と組まない? 人間を『本』から生み出すのは、最大の禁忌だ。でも一緒に帰って、僕のために働いてくれるなら、その罪を見逃してあげよう。彼女も戻せるよう手配する」
 笑顔を一発殴りたい。
「誰がそんなことするか」
 オレの返事に、紫の目が光った。
「そこにいる稀代の『書き手』ツムグ・アヤイを生かしておいてあげると約束したら? 妹に続いて彼を殺されたくないなら、これはいい話だと思うけどね。よく……考えたほうがいい。コトハ・ソノギくん」
 黙りこくったオレたちを嗤うと、リベルは悠々と引き上げていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?