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言の葉の剣 第1話

 電車の外には、5月なのに気の抜けた青空が広がっていた。
 あ~、海に行きたい……。
 ありきたりのことを考えてから、オレは視線を電車の中に戻す。日曜日の午前中、早くも遅くもない時間は、別にそこまで混んでないし、かといって空いてもいない。
 渋谷にでも遊びに行くらしい女子高生3人連れ、デートという感じの大学生っぽい男女、外国人観光客に、休日出勤のサラリーマン。
 人々の隙間から、オレは斜め向かいの座席に目をやる。
 そこに、オレが今この座席に座っている理由が、いる。
 春島美祝みのり
 ショートカットの髪が頬に落ちている。優しそうな顎の輪郭が、外の光に照らされていた。ちょっと大きい綺麗な目は、今はあまり見えない。春島はうつむいて単語集を見ていた。時折彼女の手が動く。赤シートで、覚えたか確認しているのだ。
 オレがダルい気分で電車に乗っているのは、春島がオレと同じ塾に行くから、それだけだ。
 正直、4月に母さんが勝手に有名な塾に申し込んだ時には頭にきた。やりたいこともないし、行きたい高校もないのに。偏差値でなんとなく志望校を決められて、3月までは家の近くのマイナーな塾に行かされていた。そっちは同じ学校の生徒が多くて楽だったけど、今の塾は電車で30分かかる。
 3年生なんだから本気出しなさいと言われても、本気がどこにあるのか、あるとしてもどっち方向に向ければいいのか、オレにはわからなかった。
 平日はまだマシだ。友だちの恭平も同じ塾になったから、しゃべってるうちに流されるまま移動できる。日曜日は最悪だった。母さんに叩き起こされ、家を追い出されるのは苦痛でしかない。恭平は日曜日の午前中には塾を入れていなかったし。
 でもある日、小5から同じクラスの春島と、駅で一緒になった。
「あれ? 美園樹くんも出かけるの?」
 軽やかに声をかけられて、ぐだぐだ歩いていたオレは振り返った。
 春島は人懐っこい笑顔で人気がある。いつも真面目で、誰かの悪口を言っているところは聞いたことがない。他の女子の相談によくのっていて、オレは春島の近くの席で、居眠りするふりして会話をよく聞いていた。ユーモア混じりに友だちを励ますのが上手で、春島の声を聞いていると、どんな時でもあったかい気分になれるんだ。
「あ~、うん」
 春島に声をかけられたのは嬉しかったが、それを顔に出すのはなんだか恥ずかしくて、オレはぶっきらぼうに答えた。
「へぇ~、どっか遊びに行くの?」
「いや……塾」
「えっほんと? 私も。どこ?」
 オレが塾の名前を言うと、春島はにこにこした。
「おんなじ塾だね。そっか~、御園樹くんも頑張ってるんだ~」
 頑張ってるという言葉がオレの人生に当てはまるかどうかはともかく、そう言われたことで、オレはサボらないでとりあえず塾に向かっている自分をほめてやった。
 とはいえ隣同士で座るのは気が引けた。電車は割と空いていたから、オレは春島と間隔を開けて座った。途中で他の人に座られて、春島は見えなくなった。
 降りる時に、春島はちょっと寂しそうに言った。
「なんか、間に座られちゃったね」
「別にいいんじゃね? 隣同士ならだらだらしゃべっちゃうだろうし。オレは、その、お前の勉強の邪魔したくないから」
 嘘だ。オレはくっついて座らなかったことを後悔したし、春島がにこにこ笑いながら何か話すのを見たかった。
 でもまぁ、結果的に春島は納得したみたいだった。
 というわけで、オレは毎週日曜日に母さんに起こされる前に起きて、駅で春島とちょっと話して、できれば彼女の斜め向かいに座る。位置取りできたらこっそり春島を眺めて、で、塾までの短い時間を一緒に歩くという流れだ。
 帰りは塾のクラスが合わなくてダメだった。春島は超難関コースだったから、オレは一人で早めに帰る。自習して時間を合わせようかとも思ったけど、なんかワザとらしくてやめた。
 かったるい。
 春島の邪魔をしたくないというのは本当だ。それに、春島に『頑張ってるんだ』と言われたせいで、前よりは勉強するようになった。前よりは。
 だからといって何時間も集中したり、隙間時間に熱心に参考書に食らいつくエネルギーがいきなり湧いてくるはずもなく。
 しょうもない気分で膝の上に目を落とす。
 苦手な理科、それも物理の分野なんて、いつどこで読んだって目が紙の上を滑る。電流と磁界がなんだって?
 頑張らないと。春島の言ってくれたことが嘘になってしまうのは、なんだか嫌だ。
 溜息をついて参考書に書かれた言葉を理解しようと目をこらした時、ふと隣の人の本が気になった。参考書に目を落とすと、ちょうどページが横に並ぶ。その本はハードカバーの単行本っぽくて、持ち歩くにはちょっと重そうだった。
 顔を上げてないから、本の持ち主がどんな人かはわからない。手を見る限りは若い男っぽかった。いつから隣にいたんだろう。全然気がつかなかった。
 何読んでるんだろうな。
 オレは何気なく、そっちの文章に意識を向けた。
 物語だ。
 そう思うより早く、オレはその本に呼ばれていた。

 戦乱は終わったのに、白の騎士の心は浮かなかった。深い愛情が、胸を突き破るほどの痛みで騎士を苛んでいたから。
 戦いが終わって戦地から戻ってきた騎士が聞いたのは、愛した女性の死の知らせだった。それもただの死ではない。
 女性は、とある姫君に仕えていた。姫君は、敵国たるリュウジュ国から騎士のいるタンジュ国へ、人質として寄越されていた。殺されるかどうかの綱渡りの日々の中、騎士が愛した女性に間者の容疑がかけられた。
 なぜなら、女性は小さなウォルブレールと仲が良かったから。罪のない小鳥のウォルブレールと話していたのを、王宮の者たちはいぶかしんだのだ。
 あの女は、この国の内情を小鳥を使って敵に届けている。
 女性は、姫君へ嫌疑がかかるのを避け、自分ひとりが罪をかぶる遺書を書き、小鳥を抱いて塔から飛んだ。
 和平が叶った時に、女性は無実であったことがわかった。
 何もかもが終わってから、騎士は戦地から帰ってきた。
 汚名の中で、自分がただひとり愛した女性は自ら命を絶ったのだ。帰ってきたら祝言を挙げるという約束は果たされず、騎士が姫君から受け取ったのは、一房の黒い遺髪と、優しく切ない手紙だけだった。
 称える民衆の声も、ねぎらう国王の言葉も、何も騎士には届かなかった。姫君の嘆きを背に受けて、騎士は王宮を出た。
 さすらいの果てに、己の国も女性の国もどちらも見えないところまで行くと、騎士は丘に登った。見晴らしのいい丘の上には、巨大な老木が一本立っていた。
 小鳥が憩うその大樹の根元に騎士は遺髪を埋め、しばらくそこにとどまった。
 穏やかな風が葉を揺らす。温かく朗らかな笑い声が聞こえる気がする。たおやかな手に触れられたかった。甘い眼差しに見つめられたかった。彼女を抱き締めたかった。口づけを優しい色の唇に落としたかった。
 騎士は遺髪を埋めた上に、剣を置いた。
 自分の分身である剣は見事なものだった。柄頭には大きなサファイアが埋め込まれ、グリップは美しい黒檀でできている。柄には精緻な模様が彫り込まれていた。刃は通常よりも薄いが強靭で、騎士の身のこなしに合わせた特注だった。
 敵がすくむほど澄んだ輝きを放つその剣は、いつでも騎士を守ってくれた。騎士は戦地でこの剣を抱いて眠り、生きて帰るために容赦なくこの剣を振るったのだ。
 騎士は──。

「気に入った?」
 突然声をかけられて、オレは飛び上がった。
 現実に一気に引き戻される。周囲の談笑が耳に戻り、電車の振動が体を揺らしていた。
 顔を上げる。本の持ち主は、びっくりするほど綺麗な青年だった。大学生ぐらいだろうか。切れ長の目は紫色で、髪も色素が薄い栗色。コットンシャツにジーンズという普段着のような恰好のくせに、現実離れした顔だった。
「あ、その、すみません」
 気まずさに、オレはもごもごと謝った。いつの間にか自分の参考書はそっちのけで、オレは青年の本をのぞきこむように読んでいたのだ。
 青年はパラパラとページを戻した。その仕草に、青年がオレの読むスピードに合わせてページをめくってくれていたことに気づく。
「別にいいけど。読むの速いね、やっぱり」
 やっぱり?
 その言葉に違和感があって、オレは青年の顔を見返した。
「すみません……」
 もう一度謝ると、青年はにっこり笑って本をぱたんと閉じた。
「謝ることじゃない。この本、気に入ったなら君にあげよう。いざという時に、きっと君を守ってくれる」
 え?
 何か聞き返すより先に、青年は本をぽんとオレの参考書の上に置き、立ち上がった。電車は塾より2つ前の駅に着くところだった。
「あの」
 青年の視線がオレを捕えた。その唇が動く。囁き声が耳に届いた。
「ようやく君を見つけたからね。記念にあげる。君ならその本を上手に使えるだろうから。……美園樹 殊波ことは 君」
「えっ!?」
 どうしてオレの名前を知ってる?
 問い詰めようとしたが、青年はあっという間に電車を降りて人混みに消えた。
 茫然としているオレを残して、電車のドアは閉じられた。


 どうしてあの青年は、オレの名前を知っていたんだろう。動き出した電車の中で、考えながら本を眺める。
 綺麗な本だった。表紙は紙だと思ってたけど、どうやら薄い木の板でできているようだ。滑らかに磨かれて角も丸く加工されている。
 表紙には芸術的な字体でタイトルが彫り込まれている。『ある騎士の物語』。なんだか素っ気ない。もっといいタイトルはないのか? 絵も作者もないし。
 まぁいいや。オレは表紙をめくってみた。本文の紙もちょっと変わっている。アイボリー色の滑らかな材質は確かに紙なんだけど、触ると手に吸い付くような気持ちよさがあった。
 何よりも、その本は美しかった。中の物語と本の見た目なんか関係なくたっていいのかもしれないんだけど、素朴な外見は異国の悲しい昔話に、なんだか似合っている気がした。
 最初から読んでみたい。オレはそう思って表紙をめくった。そこにも同じ字体でタイトルが書いてある。よく見たら手書きだ。深い青にも黒にも見える不思議な色のインクに、オレはしばらく見入った。
 もう一枚めくろうとした時、ガタンと電車が大きく揺れた。
「何あれ!」
 誰かが叫んだ。顔をあげて、オレはポカンと外を見つめた。
 車内の乗客全員が、多分オレと同じ顔だったと思う。
 平凡な毎日、どこまでいっても寝ぼけたような現実の中で、あり得ないものがそこにいた。
「えっやばくない?」
 女子高生が言う。
 確かに。
 オレはぼけっと考えた。ごく普通の日曜日、都心でも田舎でもない日本のとある場所。そこは川の上で、電車は鉄橋を渡っている最中で。でもそれ自体は別に変なことじゃなくて。
 やばいのは、巨大な翼をはためかせた黒いドラゴンが悠々と旋回した挙句、真っ直ぐこっちへ向かってくることだった。
 ドラゴン? ここは……どこだっけ?? いや、え~と多分ここは日本で、ファンタジーとは無縁のダルい日曜で……。
「あいつ、こっちに来てないか?!」
 人々が叫ぶ声を聞きながら、オレはどこか冷静だった。あのドラゴンは相当強い。なぜなら……輪郭がはっきりしているから。
 なんでそう思ったのかわからない。でも、オレは奴の正体を肌で感じ始めていた。なんとかしなきゃ。あれは危険だ。
 オレはリュックに参考書と本を乱暴に突っ込んで立ち上がった。最初に考えたのは、春島のことだった。リュックを背負いながら人々をかき分けて、オレは春島のところへ行った。電車は鉄橋の上で徐行運転に切り替わっていた。
「春島。こっちに来た方がいい」
 首をひねってドラゴンを見ていた春島は、オレの声にぱっと振り向いた。不安そうな目を見開いて、素直に立ち上がる。オレは手を伸ばして、彼女を引き寄せた。
 時間がない。さっき電車が揺れたのは、多分、ドラゴンの羽ばたきに煽られたから。あいつはもう一度来る。
「こっちだ」
 オレは自分が座っていた座席に戻った。ドラゴンが迫ってきているのとは反対側だ。座席下から網棚に伸びる、縦の手すり棒を春島に握らせる。
「手だけじゃない。抱きつくみたいにするんだ」
 春島は頷くと、両手で手すりを抱え込んだ。
 ドラゴンの方を振り向く。冷たい目が、乗客たちを射貫くように睨んでいる。黒光りする鱗の一片一片が逆立っていた。くちばしが開き、赤い舌がのぞく。ぶわりと翼がたわむと同時に、日の光が遮られる。
 ゴオン!という鈍い音と共に、鉄橋ごと電車が激しく揺れた。車両全体に悲鳴が満ちる。電車は線路から浮き上がり、隣の車両からは鉄骨に当たった衝撃が伝わってきた。
 嵐のように風が押し寄せ、窓がガタガタ鳴る。ゴオオという音が響く。窓の外が真っ赤に渦巻く。あいつが火を吐いたらしい。電車の中は異様に暑くなっていた。
 オレは首を回した。ドラゴンはまたも旋回している。態勢を変えるつもりだ。身を起こし、人間ほどの大きさの鉤爪をこっちに立てている。
 さっと黒い影が電車を覆い、メキメキという音と共に、鉄橋の骨組みが電車の周りから引っぺがされた。大きな鉄骨が目の前を落ちていく。ゴギッ! ガギガギ!!という轟音の中で、鉄橋も電車もめちゃくちゃに引っかかれている。
「やられてる、やられてる!」
 誰かが叫んだ。後続車両との連結ドアが開く。人々が逃げてくる。
「前に行け! 前だ!」
 パニックになった人々は、一斉に前の車両に向かい始めた。次から次へと人々が体当たりしてくる。後続車両のどこかでドアが開けられたらしく、電車の外も人が走っていた。ゴギギギ、という嫌な音は電車中に響いている。天井がバキバキへこみ、電車がゆさゆさしている。
「美園樹くん!」
 春島の声が聞こえて、オレはもがいた。もみくちゃにされながらなんとか春島までたどり着き、その頭の上の網棚によじ登る。
 春島は座席の上にいた。オレに言われたとおり、手すりにしがみついている。
「春島。絶対にそいつを離すなよ!」
「わかった、けど、美園樹くんも」
 突き上げるような衝撃が走った。人間たちがいとも軽々と飛ぶ。電車がごろりとひっくり返り、オレは天井にしたたかに背中をぶつけた。かまうもんか。衝撃が収まると同時に網棚を這うように乗り越え、春島のところへ向かう。
 恐ろしいことに、電車は横倒しのまま川の上にはみ出ていた。かろうじて割れていない窓ガラスの遥か下に川が見える。穏やかな、平凡な、川が。
 まばたきをする間に、そこを後続車両がひとつゆっくりと落ちていった。
 オレは妙に冴えた頭でそれを見ていた。
 車両は吸い込まれるように川まで落ちた。ゴウン、という音が地響きとなってオレたちを襲う。水しぶきの中、川底で跳ねた車両がたわみ、人をまき散らしながら怪獣のように転がっていく。
 息をつく間もなく、今度はオレたちの車両が揺れる。大きな悲鳴、それより大きな金属音、めちゃくちゃな音と衝撃が、人々の身体と精神を引き裂く。
 巨大な鉤爪が、上になった側面に食い込んだ。鉤爪が窓ガラスを光る粉へと変える。出入口がひしゃげてドアは飛び、そこからドラゴンの顔が見える。
 歯を食いしばって見上げるオレを、ドラゴンの目が見下ろしていた。それを睨み返しながら、オレは思った。
 こいつ、人間をバカにしてる。
 そう、確かに奴はちっぽけな人間を嘲笑していた。殺すことを楽しんでいる。オレたちをいたぶって遊んでいる。
 長い尻尾がゴオオッと音を立てて電車を叩いた。すべての窓が割れる。ドアが吹っ飛ぶ。凄まじい悲鳴をあげながら、次から次へと人が落ちる。オレは春島を連れて車両から出ようと、網棚を握ったまま声の限りにわめいた。
「春島!」
 くしゃくしゃの顔で、春島がこちらを見ている。
「美園樹くん!」
 守らなきゃ! オレは春島に手を伸ばす。もう足の下には何もない。
 でもドラゴンは容赦なかった。もう一度尻尾が電車を叩いたせいで、反対側の手すりにしがみついていた人たちが、まとまって春島に激突した。
「美園樹くん!」
 悲鳴が耳をつんざく。人々と一緒に春島が落ちていく。泣きそうな顔で、オレを見上げて。精一杯伸ばした手が、その切ない指先が、オレに向かって叫んでいる。オレも手を伸ばしていた。死にもの狂いで春島を掴もうと、指の先まで力を込める。
「春島!」
 ぼたぼたと落ちていく人々に紛れ、春島は水しぶきに消えた。
 オレはわめき散らしていた。春島が落ちた。あの人懐っこい笑顔で、『頑張ってるんだ』と言ってくれた優しい春島が、こんなに簡単にいなくなった。
 ぶつん、と何かが頭の中で切れた音がした。
 コトハ、メヲサマセ。
 歯を食いしばって、オレはひしゃげた車両から線路の上へ這いずり出た。
 残骸のような鉄骨の上で、オレはドラゴンを睨む。
 殺してやる!
 オレは、奇跡的にまだ背負っていたリュックに、手を突っ込んだ。中から例の本を取り出す。
 剣だ。あの剣はドラゴンを切る剣だ。オレは頭の中でぶつぶつ呟いている。
 どのページなのかはすぐにわかった。しおりが挟んであったのだ。
 よろよろと立ち上がる。狡そうな目で、ドラゴンはオレを見ている。非力なオレを面白がっているようだ。いいオモチャがいるという奴の考えが、オレにはなぜか伝わった。
 開いた本を左手に持つ。その文字に目をこらす。
 ヨミナサイ。
 オレは、剣の描写を声に出して読み始める。
『剣は見事なものだった。柄頭には大きなサファイアが埋め込まれ、グリップは美しい黒檀でできている』
 アイボリーの紙面がうっすらと光る。靄のようにページが動く。『柄頭』の文字がゆらりと立ち上がる。『サファイア』が輝き始める。
 オレは紙に手を突っ込んだ。どういうわけか、文字はそのまま読み続けることができた。文字が鮮烈なイメージを紡ぎ出す。糸のように文字がほどかれ、輪郭を作る。
 黒檀のグリップをオレは握った。紙から眩い刀身が引き抜かれていく。
 オレの詠唱は止まらなかった。
『柄には精緻な模様が彫り込まれていた。刃は通常よりも薄いが強靭で、騎士の身のこなしに合わせた特注だった。
 敵がすくむほど澄んだ輝きを放つその剣は、いつでも騎士を守ってくれた。騎士は戦地でこの剣を抱いて眠り、生きて帰るために容赦なくこの剣を振るったのだ』
 描写が終わると同時に、オレの手には曇りのない光を放つ剣が握られていた。鋭利な剣先まで、それは鮮やかな輪郭を持ち現実に存在していた。
 脳が灼けついたように、オレは何も考えられなかった。キィンという耳鳴りがする。
 ドラゴンはいつの間にか、遥か向こうを旋回していた。こちらに向きなおると同時にドラゴンの目が細められ、鼻から蒸気がフンと噴き出る。
 本をジーンズの腰に突っ込むと、オレは両手で剣を握り上段に構えた。
 受けて立つと言わんばかりに、ドラゴンが数度羽ばたく。
 来る。
 一呼吸の後、ドラゴンは一気に突進してきた。赤い舌が見える。熱風が押し寄せる。体が浮きそうになる。
 オレは踏ん張った。剣先をドラゴンの顔にまっすぐ向ける。
「このおおお!!」
 力の限り叫びながら、オレは大きく剣を振り下ろした。硬い物を切るビリビリとした感触が、手の平から全身を貫く。ギャアアアア!!という叫びに、鼓膜が破れそうだ! 重い羽ばたきがオレの足元を叩き、鉄がえぐれる。ザァっと熱い影が吹き過ぎる。
 気絶しそうなほどの痛みと恐怖の中、オレはそれでも立っていた。息を切らせ、重い剣を握ったまま、オレは次の襲撃に備えてドラゴンから目を逸らさないでいた。
 ドラゴンは、オレを襲った勢いそのままに、疾風のように川の上を飛んでいった。それがやがて失速する。よろけるように向きを変え、こちらを睨む。
 奴の頭の上から鼻の先までが、深々と赤く割れていた。
 ドラゴンはしばらくオレを睨んでいたが、やがて力尽き、自分が殺した人間たちと同じように、川の中へと墜落した。

 ぼろぼろの鉄橋の上で、オレはぜぇぜぇと息を切らしたまま、しばらく突っ立っていた。
 終わったんだろうか。
 集中力が切れた途端、膝が崩れた。カクンと地面に座り込む。剣がふわりとインクのような線になり、空気に溶けるように消える。
 ドラゴンは……。
 ドラゴンも消えていた。
 残ったのは、破壊された鉄橋と、電車と、生きている者と、そして死んだ者だった。
 茫然と、オレは川を見下ろしていた。煌めく水面に、人々が横たわっている。どこかから、いくつもいくつもサイレンの音が聞こえる。ヘリコプターの音もだ。
 春島は。
 春島はどこに行った?
 やっとの思いで立ち上がり、辺りを見渡す。何人もの怪我人が横たわり、呻き声が響く。電車の残骸の下から、ぴくりとも動かない足が見える。
 オレはよたよたと鉄橋の上を歩いた。川岸に辿りつき、川へ下りられる場所を探して頭を巡らせる。
 線路から下りたところで、誰かがオレを抱きとめた。
「大丈夫ですか? 怪我はない? 火傷は? 動いちゃだめです」
 放してくれ。オレは、春島を、探さないと。
 助けの手を振り払い、オレはよろけながら川岸へ降りようと、歩みを進める。
 その視線の先に、あの青年がいた。
 惨事におののく人々の中、そいつは浮き上がるように立っていた。周囲の状況から切り離されたように涼やかな顔をして、オレを見つめて微笑んでいる。
 気づいた時には、オレはそいつの胸倉を締め上げていた。爆発するような怒りを、オレは青年に叩きつける。
「あんただろ、これやったの! 何やったんだ。何を知ってる!」
 わめき散らすオレを、青年は平然と見返している。
「僕じゃない。僕は、君を守るために武器を渡しただけだ。それにこの事態は、コトハ君、君自身にも責任がある。何も覚えていないのかい?」
「なに、を……」
「やれやれ。ロウジュ国の騎士殿は、相も変わらず我儘が過ぎる。そんなふうだから、愛する女性も守れない」
 その言葉で、オレはブチ切れた。我を忘れ、青年の顔をブン殴る。
「春島に何をした! お前! お前は!!」
 怒りで頭が沸騰して、言葉がうまく出てこない。ふー、ふーという獣のような息だけを吐き、オレは青年を睨み続ける。
 青年は、殴られた頬を手の平でさすりながら、艶然と微笑んだ。
「落ち着きたまえ。まったく……。何か誤解があるようだけれど、僕は君の味方だよ。事情を話したくても、君がこんなふうじゃ話せないだろう? そもそも、ここにアレが出現するのも、多くの人々が亡くなるのも、『正しい筋書き』ではないんだ。君が修正すれば、通常の流れに戻すことができるのに」
「どういう……ことだ」
 青年の向こうに、無残に破壊された電車が見えた。川に半分沈み、陽光に車体を光らせて。
 泣くな。春島はオレが見つけなきゃ。
 青年が肩をすくめる。
「ゆっくり説明できる場所と時間が必要だね。愛しの人を再び抱き締めたいのなら……僕について来るといい」
 オレは周りを見渡した。
 救急車やパトカーが、何台も到着しつつある。近隣の住民が、心配そうに見に来ていた。川から数人が這いずり出てきている。それを助けている人もいる。
 春島を探さなきゃ。
「ここで空しく彼女を探すより、根本的に『筋書き』を戻した方が早い。わからないかな」
 穏やかな青年の声に、オレはぎゅっと目をつぶった。春島は死んでない。でもきっと、苦しんでる。川から助け出して、怪我をしてないか確認しないと。
「ほら。行こう?」
 なだめるような態度の青年を睨むと、オレはその横をよたよた歩いて川へ向かう。
 背後で呆れたような溜息が聞こえたけれど、無視することに決めた。『筋書き』とやらが戻せるなんて、目の前の光景が見えているなら言うべきじゃない。だって、今ここにある痛みとか、苦しみとか、そういうのは本物だから。無いものとして簡単に終わらせるのは、なんだか違う気がする。
 それにもし本当に『筋書き』を戻せるのなら、やらなきゃいけないことを全部やった後だっていいだろう?
 オレは水辺へと歩き続けた。体が重いし、何かが腹を押していて苦しい。ふと気づいて視線を落とすと、ジーンズにはまだ本が挟まっていた。それを草むらに放り出し、もう一度歩みを進める。
 水辺にたどり着いて、オレは春島を探し始めた。数人が、自力でなんとか岸に来ている。その人たちを引き上げている時、土手に立っている青年が遠く見えた。例の本を手に持って、オレを見ている。
 あいつに構ってるヒマなんかない。オレは春島を探して川面に目をこらし続ける。
 近くのビルの上からすべての状況を見ていた者がいることを、その時のオレは知る由もなかった。

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