疲労の水溶液

2月にした旅行の旅記を、3月と7月と8月に分けて書いている。キモすぎるよ…
だらしないにしても、面白さもなく、読みやすさもなく、あまりに…
それはさておき冬に岐阜に行った旅記、最終日。


朝起きて、いやな汗をぐっしょりかいていることに気づいた。
旅先でよくあることだが、ふとんも空調も普段と違うから温度調節がおかしな状態で寝てしまいこうなる。
寒いよりましな気がするが、こうなると起きてからが寒いのでどちらにせよといったところだ。

もひとつ悪いことに、少し寝すぎていた。時間があまりない。
身支度してすぐ出るならいいけど、昨日干し柿とパンをもらった上に、フロントでまた別にパンとジュースをもらっている。
今日はこの後すぐ山登りだからしっかりめに朝食はとっておきたく、手元にあるものは全部食べてから出ようと思っていた。

なんとかなるだろうと思い、フロントでもらったほうのクロワッサンを1階に降りてレンジで温める。
AIBOにはやはり出会えなかった。
ついでに水を注いでコップも持って上がり、朝食とした。
寺庭さんからもらったパンはそれはそれは美味しかった。チーズ系の塩味がちょっとしょっぱすぎるくらいなのだが、それがパン生地と相まってガツガツ食べてしまう。ちびっこもこういうの好きだろうなー。地元で有名なパン屋のフラッグシップ、あなどれない。
そして干し柿。フルーツ全般があまり好きではないうえに、カキはそのちょうど真ん中くらいだなと思っていたが、さすがにこれは美味しかった。
まず何よりもめちゃくちゃに甘い。角砂糖食べちゃった時と同じ満足感・背徳感がある。皮のガサガサ感に対して中のもちゃもちゃ食べる感じも初めてで楽しかった。
あと、かなり量が多い。ひと口で食べきっちゃおうと思って食べ始めたのに6回くらいに分けて食べた。
ぶどうジュースが残っていて甘い後に甘いものでどうかしている食べ順になってしまったなと思ったが、柿に時間をかけすぎたせいで時間がないので急いで食べた。

いそいそと歯を磨いて着替えてホテルを出た。3匹の看板猫は、白だけがいて俺に興味を示すこともなくベッドにたたずんでいた。
出てすぐスマホで時刻を確認すると乗りたい列車の発車まで5分になっていた。
駅に着くまでに5分であれば問題なかったが、昨日岐阜について外に出るまでに結構階段を下りたのを思い出した。駅の構造もうろ覚えだし、迷うかもしれない+階段が割とある。
そんなに本数のない路線でもないけど、山を登って降りるのにどれくらいの時間がかかるかわからないのでやはりこの列車は逃せない。
となるともう走るしかない。

しかし直感的にバッと走り出すことができず、うだうだ間に合わなくてもいい理由を考えながら歩く時間があった。
しっかり6時間寝て起きた直後にもかかわらず、すでに足が完全に限界だった。
太ももが鉛のように重く、ふくらはぎが、鉛のように重かった。
それでもなんとか走り始めたものの、走る前から見えていた駅にたどり着くまでにひぃひぃ言ってしまったし、そこからジャッキで無理やり引き上げるみたいに階段を上って、本当に限界ギリギリまで力を出し切ってなんとか間に合った。
間に合ったはいいけど立ち止まったら吐いてしまいそうなくらい息切れしていて、車両の端から端まで歩いてなんとか落ち着かせたあとは、ずっと座って車両の床を眺めていた。

幸い降りる駅はすぐではなかったのでグロッキー状態から少し回復し、
そうこうしているうちに坂祝に着いた。

2面2線の簡素なホームで、上り方面側に改札があったので跨線橋を渡っていった。
高いところから見晴らしても付近にはセメントステーションと少しの民家しか見当たらず、薄曇りの日だったのもあって大層質素に感じた。
下調べの時は坂祝町のHPを見たのだが、意外と整備されているサイトだったので人が来ることが想定されているというか、もう少し観光の可能性があるにぎわった場所なんだと思っていた。

ホームを出るとわかりやすく看板で「猿啄城跡」と書かれていて、ふむそっちへ進めばいいのね、と思って見てみると、奥に見えてる県道より断然細い、人1人通れるか、という道があった。
大して遠回りでもないんだから県道のほう歩かせればいいのに…と思いつつ、来訪者ファーストな看板の通りに歩き始めると、すぐ前方に山が見えて、その頂上に展望台らしき影を見ることができた。

これには俄然テンションが上がった。
山自体遠すぎるし、その頂上の展望台も小さすぎる。
今から小一時間ののちには自分があそこにいると思うと、目的を持った徒歩移動の可能性を感じてわくわくした。
高校を卒業する、みたいな「俺は今からどこにだって行けるんだ!」みたいな気持ちになった。
俺は1浪しているのでそんな気持ちのことは知らないが。

まだ朝っぱらだというのにどんより曇った中歩いていくと、途中何人か住民らしき人とすれ違った。
JKくらいの女子二人が、旅行者と思しき俺のほうを見て何か話しているのを横目に感じつつ、高速道路の橋脚のほうに進んでいった。
高速道路に出てしまうのでは?というほど接近してようやく、猿啄城跡への駐車場などが出てきて、着いてみると車のトランクから何か取り出す3-4人のハイカー仲間のような集団がいたり、夫婦連れがいたり、と割とにぎわっていた。
荷物を置いていけるようなロッカーがあるわけではないので、準備もくそもなく俺はその人らを尻目に奥へと進んでいった。

このままずんずんと行きたいところだったが朝に食事とってからトイレに行っていなかった。
便意がここできてしまったので、ここより先にトイレはありません、との看板の案内に従ってそこで用を足していくことにした。
やはりここでも紙はなかったが、昨日の教訓を得ているのでしっかり準備していた紙できれいにしようと思いふと振り返ると、トイレの扉にガラスの小窓があることに気づいた。
本当に意味不明だが、トイレの扉に、一部ガラスの部分があった。擂りガラスとかでもなく。女性とかどうすんだこれ。
さっきのハイカー集団が、俺が排便しているところ見てから入山したかもしれないってこと???
と思うと恥ずかしいのか怖いのかよくわからない気持ちになったが、ほどなくして駐車場のほうからその人たちの声が聞こえてきたので人におしり見られてから登山を開始する事態は避けられたみたいだった。

歩き始めるとすぐ、小川にかかった橋を渡るのだが、橋が初めの場所より低い位置にあり、
「いや山登るのに一旦下るんかい」と思った。
全員思うんじゃないかなこれは。

足場は俺の足が入りきらないくらいの小さい段差から、2,3歩使うものまで大小様々で、蹴込も木の板があったり石だったりで、とにかく登れるようにはした、くらいの感じだった。
俺は足がデカい(30-31cm)ので踏み外す可能性も高く、時に横向きになったり時に危ない一段を飛ばして登ったり、いちいち対処を変えなくてはいけなくてこれがかなり疲労を溜めさせた。

その上、元から足がめちゃくちゃ疲れている。
一瞬にして足がパンパンになり、その状態でやっと入山者数を管理する計測器のところに着いた。

垂とのイベントの中で一番好きなシーンがここだったな〜
可愛すぎて何回かここのセリフだけ聴くのをやっている。
垂のあの性格的にからかって楽しめる一番現実的なところというか、このくだり別の場面でも擦れるし、本当に良い…顔も声も可愛い。
などと思いながら、ちゃんと1回分だけカウンターを押して、また登って行った。

何度も同じことを書いても仕方がないからここで一度書いておくだけにするけど、
もう本っっっっっ当に辛かった…
時間にすると30分ちょっとなのだけど、足が限界の状態から常に階段を登り続けたのは初めての経験で、常に脳内では下山が選択肢にあった。
昨日と違って山の奥じゃないから熊やら遭難やらの恐怖はなかったけど、筋肉がズタボロでどうしようもなかった。
手で漕ぐ自転車を昔図鑑で見たのを思い出して、なんとか手で歩けないかとずっと考えていた。
途中健脚なおじさんに道を譲ったりして情けない限りだったが、休み休みじゃないと無理なものは無理で、ゲームみたいに回復を待っては少し動く、を繰り返していた。
どうでもいいがこの経験を皮切りに最近はちょくちょくプールで泳いでいる。

さて、道の途中、風雨来記と同じく電線の鉄塔をくぐる道を通った。
分かれ道の先にあるのでどっちか分からなかったが、確か垂のために楽なルートをとってのだったよな…と思い楽そうな方を歩いて行ったら合っていた。
風雨来記はもはやはっきりと俺の道標になっている…。

確かに自分も鉄塔って近づいたことくらいしかなくて、中を通ってくぐっていけるのにはテンションが爆上がりした。
鉄柵やらで囲まれてるもんな普通。
スーパーフライのスタンドが羨ましかったのが少し昇華された。
見上げて模様を眺めたり一通りした後、また足が痛すぎてしょぼくれながら牛歩で頂上を目指した。

やっとこさ頂上に着くともう嬉しくて、なけなしのアドレナリンで展望台まで駆け上がった。
朝からずっと薄曇りで天気は変わっていなかったので、肌寒い曇天の眺めではあったけど、
高さが高さなのでそれはもう心地よかった。
どっちを向いても景色の真ん中に木曽川が横たわっていて、そこから街が広がっている。
垂の話に水運の話があったように、ここから眺めると水のあるところに人が街をつくり、そこから栄えて行った様がよく分かった。
アカデミックに思いを巡らせつつ、垂の固有絵のあったアングルでずっと「ここに垂がいたんだよな…」という感慨にも耽っていた。

途中何組も下山者とすれ違ったし登りの人もいたはずなのに案外俺1人の時間が長く、帰りしなに同じく1人で来たらしいおじさんと2人で景色を眺める時間があった。

いくらでも眺めていられたけど、人も来たし、帰りの電車もある上に、この足だと下山もどうなるかわかったもんじゃないので後ろ髪引かれつつ下山を始めた。

下山は上りよりかなり楽だったんだけど、ほぼいうこと聞かない足で小さい足場を降りているとかなり踏み外しそうだったので、一つの段につき二歩ずつ使ってちまちま降りて行った。

途中親子連れとすれ違ったが、さして重装備でもない、というかテキトーにある服を着てきたくらいのこの子たちはもしかして時々来る場所だったりするんだろうか?
来訪者にとって特別な場所が誰かにとって当たり前の場所なのだ、という事実ほど尊いものはないけど、彼らの、元気よく挨拶して通り過ぎる姿にはまさにそれがあった。

登った達成感と、午前中なのに本当に疲れ切ってしまいこのあとどうしよう?という不安と共に歩く帰りの道は意外と早かった。
坂祝に戻ってくると、行きに見かけた撮り鉄がまだ同じ場所で線路の向こうを眺めていた。
撮り鉄はここで降りたり、猿啄城展望台のことを知っていたりするもんだろうかと思いつつ、すぐに電車が来たので乗って美濃太田へ向かった。

美濃太田といえば前々泊地であり、昨日もほぼずっとこの周辺を巡っていたので、よく考えると岐阜市に行く必要はそんなになかったことを思い出した。
元の予定では小山観音を早々に発ったあと、樽見鉄道や養老鉄道も乗ろうかと考えていての事だし、
岐阜の繊維街を夜中に歩き回れたのはかなり楽しい時間だったので無駄でもないなのだが、足跡だけ見るとかなり非効率な動きをしている。

隣駅の美濃太田にはすぐ着いた。
このあとご飯を食べられるタイミングが無さそうだったので、美濃太田の売店で物色していると、菊水堂のポテチを見つけた。
高くてシックなポテチが流行ったのってもう5年位前の気がするけど、この手のものが気になるタイプの俺にしては食べたことがなかったのでこれ買って昼飯とすることにした。
ちなみに菊水堂は埼玉の会社なので岐阜とは何も関係がない。

空いていたので堂々とポテチを食べながら、木曽川にかかる水門?橋?を眺めていた。
太多線には一部(後述)初めて乗ったけど、のどかでそこまで長くもなく、最もどうということもない路線だなと思った。
晴れていたら絶景だったりしたかもしれないが今日はずっと曇天っぽい。
ただ、このどうということもなさこそ、かけがえなく感じるし本当になくなってほしくない。
太多線を高校生まで使っていた人が東京に出て、ふと太多線の話をふられたときに「あー!懐かし!!」となる世の中であってほしい。いつまでも。
それっぽいことを書いたが抽象的なのは、これというほどの思い出のない証拠でもある。

そうして多治見に着いたが、ここでは乗換がすぐ来るので特に改札買いには出なかった。
太多線には多治見から根本まで乗ったことがあって(鉄研の先輩がこの駅で全線完乗するというので、その出迎えに行った)、多治見の駅前は一通り堪能済みだったのもある。

今回の旅行で初めて使う中央本線に乗って恵那まで。
岐阜には中央本線と東海道線が通っているのに交差はしないという事実に乗っていて初めて気が付いた。
岐阜がテトラポット型をしているのがもろに影響しているよなー。
多治見や恵那と岐阜が全くつながっていない。
地図を見てみると道路も太田を経由したつながっているように見えるし、同じ県だけど東濃と西濃は愛知をバウンドさせないと行き来が無いのが予測される、同じ県内を移動するのに他県に行くのは面白いよなー

さて、恵那からはバスで酒折棚田まで向かう。
バスが出るまで15分ほど時間があったので、恵那の駅に併設されている観光案内所兼土産物売場(11字熟語)を物色していた。
普段こういう場所で見るお土産って「良さそうだけど要らない・食べきれないかな…」か「これ県が同じだけでこの土地のお土産じゃないじゃん」というのが多いけど、
この「えなてらす」に入るなり「にんにくマンカレー」というのが目に入り、美味そうだしモロに恵那のだし、すぐカゴを手に取ってそこに入れた。

ほかにもいくつか買って、リュックがパンパンになった状態でバスに乗った。

20分ほどバスに揺られて野瀬バス停へ。
途中で降ろされた、としか思えない道の途中にあるバス停で、道の待避所っぽくなっている部分に降りると、遠くのほうに山が開かれて田んぼっぽくなっているのが見えた。

大きな看板が、面の部分が外れて枠の鉄骨だけになっているのが建っていて、その陰にものすごく小さな「酒折棚田(階段を降りろ、という意のギザギザ矢印)」という看板があった。
それに従って県道から民家のある方へ降りていくと、美容院や元食堂などのある、ギリギリ住宅地と呼べるくらいの区画に出る。
その中を田んぼの方へ進んでいくと、ここか!という場所に出る

…のだが、朝からの曇天がついに決壊して雨が降り始めた。
3日間ある旅程の前2日、都合よく雪に降ってもらった上に2日目はいい天気だったので贅沢は言えないが、棚田を見に来て雨ってのはね~
とはいえ、2月の田んぼは寒々しい稲刈り跡があるだけだし、雨のバージョンも見れたのはそれはそれでラッキーだと思えるので、
(雲海とか塩湖とか、それが見たくて来る以外はどんな天気でもいいやと思える、濡れる不快感が別であるけど)
とりあえず傘はささないで棚田を下から眺めていた。

棚田ってのは当たり前だけど斜面に作るもので、
その斜面が多分ここでは斜度の緩い部分ときつい部分があって、
県道の方から坂を上がる形で歩いてきたので、今緩い部分にいるのが、棚田の区画の広さで分かった。
区画が広いとなんとなく棚田っぽく見えないというか、
田んぼが段々に配置されているだけ、という感じがする。
これ最初は上から見てないから棚田だと感じられてないだけだと思っていたんだけど、別にその田んぼの区画の上まで歩いても眺めが変わらずに、マーライオンみたいなガッカリ観光地なのかもしれないと思った。
(何度も言うけど本当にこの表現は嫌いだし人の方で勝手に観光地に仕立てて勝手に来ておいてどういう傲慢さなんだ?と思う。この概念の記憶を消せたらこう思わないでも済むのに…)
大山千枚田と違って有名ではないから、案外こんなもんか?いやでもちありと来たときはもっと奇麗だったような…と思いつつ、棚田を見下ろせそうな山沿いの県道の方へ向かった。

途中養鶏場らしき施設があって近くをうろついてみたり、
農家の方がかけたのであろう丸太二本つなげただけの橋が用水路にかかっているのを「落ちたら終わりだしスマホ落としても同じく終わりだ…」と思いながら渡ったり、帰りのバスまで2時間半もあるのをいいことに、かなり広い範囲で物色しながら棚田を登って行った。

登ってくると景色もいよいよ棚田らしくなってきて、
一つ一つの田んぼは小さく、それでいて田んぼ同士の高低差がかなりおおきくなった。
立派な石垣と、その中に普段から日陰になっているのだろう部分には雪もかなり混じっていて、
雨が降っているからこその自然の厳しさを纏った棚田の姿を見ることができた。

見えていた県道まで上がって振り返ると、酒折棚田の全体を一望できる。
少しうねりを伴って斜面が下っていき、そこに階段状に田んぼが作られている、棚田が人を惹きつける迫力がしっかりとここにもあったな。
晴れている日に、稲の葉が風に揺れていたらまたそれも素晴らしい景色だったと思う。ちありとは見たけど。

コロナで営業をやめてしまったようだったけど、棚田見学者のためのお茶番処(調べたが一般にお茶番処、という施設名は無い)があって、
少し前までならここでご飯も食べられたみたい。
今は駐車場としてしか機能していないみたいだったけど、
自販機がひとつ設置されていて、ラインナップを見るとそこで棚田のお米と地元のおばあちゃんが作っているという焼き菓子や地元の野菜で作った焼き肉のたれが売っていた。

あとで展望所の四阿に置いてあったチラシを見て知ったけど、ここでは結構キャンプやバーベキューができる場所としての売り込みも行っているらしい。
それでこのラインナップだったわけだけど、さすがに焼き肉のたれは持って帰って使い切る予定がなさすぎるので、お米とビスコッティを買って四阿に移動した。

ちょうどそのタイミングで雨が強くなってきたので、しばらく景色を眺めたり、棚田の保存会に入りませんか、というチラシを読んだり、ビスコッティを食べながらゆっくりしていた。
防寒のために巨大なダウンを着てきていたのだが、いかんせん巨大ゆえ出先での脱ぎ着ができず、それを着たまま山を登って下りて坂を上ってをしたので汗をかなりかいてしまい、それが冷えて寒くなってきていた。
気をまぎらわすために設置されていた旅行者ノートを開くと、こんな一文があった。


ここは何にもない所です。
田んぼと山と、空と雲と、風と、
あるのは唯、それだけです。
でも、悲しみを抱いた人には、
もっと悲しみを、
喜びを感じている人には、
もっと喜びを、
希望と共に来た人には、
より一層の希望を、
何にもない所だからこそ、
あなたの感情を、そのまま
受け入れてくれます。
人とのきずなも、一人ぼっちの寂しさも、
次に会えるのは400年後?

酒折棚田保存会


自分が旅行が好きでどこにだって行きたい理由の一部を、
ものすごい解像度で教えられた気がしてドキッとした。
旅行には旅情がつきもので、なんでもポエティックになるものだけど、
それとは無関係にダイレクトに心に刺さった感じがした。

最後の一文「次に会えるのは400年後?」というのだけ全然何を指しているのかわからなくて可笑しかったが、
2月の中頃に、雪の残った雨の中、自分のような人間がここへきてこういう気持ちになるの、多分400年くらい経ったらありそうだな、という自分なりの納得感はあった。
その日その時にしか見えない景色、というかけがえのなさが旅行の醍醐味だけど、
似たような景色は嫌というほど地元の人は見ていて、その価値は旅行に来ている人間が勝手に決めた値打ちでしかないよな、というニヒルな感情もまた然りなので。
旅行中はどんな感情も崇高な自分だけのものだと思えるから良い。

かなり長い事四阿でただ景色を眺めて過ごしていたら、少し雨が弱くなった気がした。
見渡す限り空はグレーなので止むのを待つのはあきらめて、ちありに大事な告白をしたあの位置に座ったりしてみた。
雨でもきっと同じ笑顔で聞いてくれていたよね。

しっくりくる場所がどこかって意外とわからないので、数十センチずれては座り、またずれては座り、としていたが、雨がまた本降りになってきつつあったので、酒折棚田もあとにすることにした。

これで、今回行きたいと思っていたところはすべて訪れた。
風雨来記をプレイして、思いがけずも心を鷲掴みにされ、大方のシナリオを踏破し、やってきた寂寞の念。
好きなゲームや映画や漫画を終えた時のあの感じ。
何としてでもこの世界から離れたくないと思い後ろ髪を引かれるままにここ岐阜まで足を運んだ。
ついにそれも終わろうとしている。こんなに名残惜しいことも久しぶりだった。

そんな気持ちから、バス停の周辺の集落をくまなく歩いて、なるべくこの場所のことを見聞きしておこうと思い散策していた。
その中に廃業して久しいだろう旅館を見つけた。ここに泊まる人がいた、とまでなると往時の様子が思い起こされもしない、想像がつかない。
悲しいかな人の住んでいる気配は棚田の方の数件以外は無く、いつまでこの景色も見ていられるか分からないな…と思わされるだけだった。

まだバスまでは時間があったがほかにすることもないためバス停に戻ってきた。
復路のバス停はいくつかの商店が並んだ建物の軒先にあって、そこの屋根で雨宿りをしていた。
電気屋の閉まったシャッターの前にコカ・コーラのベンチと公衆電話とポストが並んでおり、黄色の上着の俺が座っていたらさぞうるさい絵面だろうと思いながら、どこかの老人が失踪したという地域の無線放送を聞いていた。
どうでもいいけど電気屋の隣のすし屋はコロナで店を閉める旨の貼り紙がまだ新しかったから、やってそうだったな。

割と待ったのちにバスがやってきて、行きに道すがら見た団子屋に次ぎ来るときは行こうとか思いながら、雨の中恵那駅に戻ってきた。

恵那から中津川まで中央本線で。
中津川も何かの際に駅前をうろついた記憶があって、その時のまま駅を出た左手に大きなデパートのような建物があった。
これがまた良いんだよな。大きい建物なのにテナントの入っている様子がなく得体が知れない。
公衆サービスの建物にしては洒落た百貨店感がある。

その建物を横目に見つつ、わかりやすく整備されたバス停のうちお目当ての馬籠行に乗り込んだ。
車内の映像で馬籠宿の紹介をしてくれていたが、俺は風雨来記で来ているから多少知っているし、俺意外に乗客はいないしですごく空しい放送だった。
発車間際に地元の方らしきおばさまが一人乗ってきたが、やはり途中で降りたので放送は無意味なようだった。

バスはぐんぐんと街を後ろに引き離し、曲がりくねった坂道を快調に飛ばしていった。
運転手さんも慣れたものだなとか思いつつバスに揺られること20分ほど。
この旅行最後の目的地、馬籠宿に着いた。

ちありに告白する場所を訪れた後に、ちありと仲直りをする場所に来るこの逆行はなんともいえない気持ち悪さがあったが、宿泊地なんだから仕方がない。
ちありも食べていた五平餅を食べてせめて…
と思ったが、よく見たら付近の店はすでに閉まっていた。
元よりお店もそう多くないようではあったが、到着したのが16:40。やっていないのも当然っちゃ当然だ。

目的地の最後にして、こんな肩透かしをくうとは思っていなかったが、中山道の石畳とその先の展望台は逃げやしないので、そこを歩いてみることにした。
宿には17時に着く予定だったのでちょうどいいやと思い地図を開くと、予約した宿はここから展望台とは逆方面に徒歩で30分ほどだった。

これにはさすがに動揺した。
よく調べたらわかったが、馬籠宿のサイトツリーの中に記載があったというだけで、予約した宿はほぼ次の落合宿との中間点にあった。
終バスで来ているので折り返せるなどもなく、仕方ないので展望台までの石畳を登りながら、宿に電話を入れた。
女将さんが心優しく許してくれたので、さらに上を目指したが、これが思いのほか長かった。
ちありと歩いたときはケロッと上った印象だったが、趣ある宿場町の古い町並みがずらーっと続いていて、その屋根には雪が積もっておりかなり幻想的だった。
風雨来記みたく昼に来るならまだいいが、この時間帯の幻想的なことといったらすさまじく、みだりに女性とくるもんじゃないとすら思った。絶対に忘れられない思い出になってしまうと思う。
幻想的でないことといえば、もう本当に足が限界なのに、荷物に入りきらなかったお土産をビニール袋に入れてリュックにひっかけていて、それがブンブン揺れるのでいちいち歩きがしんどくなる。そのうえ破れて落ちるんじゃないかという心配もあるから無意識に庇った歩き方になる。
プラス、ときたまアジアでも欧米でもない、南米系?の外国人グループと2度ほどすれ違った。
何があって割とマイナーなこの観光地に、俺が一昨日断られた断られた事からもわかるように、割と前から準備をしてここに泊まろうというのか、不思議だった。まず観光客って入国できるんだ。

しかしそのあとはもうずっと一人で、山間特有の日が山陰に入って薄暗くなった道を歩いていた。
そうしてやっと恵那山を望む展望台に到着した。
やはりある四阿にリュックを下ろし、しばらく遠くを眺めていた。
薄青く広がる曇天の空は、恵那山の向こうまで広がっていて、どこを見渡しても街が見えず、本当に山を切り開いてできた場所なんだということが感じられた。
山肌を走る道路やその街灯、車のヘッドランプなんかも一切見えない。
低い空を動く雲以外はじっと静止したその景色は、旅の最後なのもありとりわけ寂しいものだった。

またしとしとと降り始めた雨の中、島崎藤村の父・正樹がこの地について詠んだ歌を石碑と横の説明の看板を読みつつ昔に思いをはせたりしてみたが、自然をほめるその内容が今の景色とはあまりマッチしていなくて、そこまでどう思うでもなく、雨でぬれるのでそろそろ宿へ向かうことにした。

行きが幻想的で帰りが幻想的でない事などありえないので、やはりジンジンと心に染みる雪景色の中一人で坂を下って行った。
途中中年の夫婦とすれ違った。今から二人であの景色を見るのか…。

途中にある休憩所のようなところで旅行者ノートを簡単に書き、保全協会の募金に心ばかり入れてまた歩き始めた。

元降りたバス停を過ぎてからの道のりが大層長く、歩いているうちに日が完全に暮れて真っ暗になった。
民家もまばらで当然街灯もまばらなので、心細い事と言ったらなかったが、途中たまに木々の隙間から遠くに見える中津川の街明かりがものすごく奇麗で、そのたびにカメラを出して撮りつつ進んだ。
ここまでよく粘ってくれたHOKAの靴もついに水分の侵入を許し、足先がかじかみはじめたときにやっと今日の宿、馬籠宿は新茶屋に到着した。
馬籠に着いてからなんだかんだ1時間以上経ってしまっていた。

曲がりくねった林道の中にある大きな建物で、旅で疲れた旅行者をもてなすにはかくあるべきといった店構え?だった。

玄関を入ると、思っていたよりもお若い女将さんが恭しく出迎えてくれて、お寒い中ようこそと靴箱を指し、濡れているならと新聞紙を持ってきてくれた。
靴にガサゴソ紙を詰めながら、東京から来たとか、今日はほかには宿泊客はいないとかそういった話をした。
この女将さんがもうどこをとっても丁寧でぬくもりのある方で、いくら接客業だといっても生まれつきのやさしさが無いとこうはならないだろ、というくらい柔和な話し方で、久々の人との会話だったこともありクラクラしてしまった。
どうやら広いお宿を今日は一人で切り盛りするようで、ほかに人影は無かった。
俺が土壇場で予約なんてしなければゆっくりできただろうにと思うと恐縮で、スリッパなんかもいちいち揃えて部屋に入ると、
通常お茶菓子と呼ばれるようなそれとはまったく違った、シャレた洋風の袋とその中に花びらの形をしたチョコレートが入っていた。
よくみると別で盆の上にはバームクーヘンが乗っている。
む…?と思いふと気づくと同時に女将さんも喋った。

「これ、一応明日がバレンタインなんで…」

やはりそうだった。バレンタインのチョコをくれたのだ。
白状すると、この瞬間俺はもう女将さんの事が女性として大好きだった。
一つ一つの接客に優しさというか母性というかが溢れていたが、それはサービス業だからで片付けられる。しかしこれはどうしたことか。
サービス業はサービス業だが茶目っ気のようなものがあるじゃないか。
感情の昂るあまりどういうテンションでなんと返したか思い出せないが、まあひどく喜んでお礼を言ったのは確かだと思う。
こたつも入れておりますのでごゆっくり、ということで、気持ちを落ち着けてニュースを点け、東海地方のニュースを見ながら足を炬燵に入れた瞬間、今まで旅行してきた機能のスイッチがすべて切れた。

本っっ当に暖かかった。ものすごかった。温度がでは当然ない。
こたつと、よく見るとひとりにしてはかなり広い8畳の部屋と、床の間とその置物と、テレビから流れるローカルニュース、その全部が俺をくつろがせるように作用して、とろけるように座椅子にもたれかかった。

しばらく微動だにせず名古屋のコロナの数などを見ていたが、先にお風呂いただいてからご飯にすると伝えていたので、湿った足を引っこ抜きお風呂へ向かった。
服を脱ぐ前にちらっと中をのぞくと、普通の石床の洗い場がこぢんまりとあり、その隅に、やはりこぢんまりと浴槽があって蓋がされていた。

が、これが檜風呂だった。檜の香りがしたのでわかった。
この香りむっちゃくちゃ好きなので、どこまでこの宿は俺を解きにくるんだと、テンションが上がるのかリラックスして落ち着くのかよくわからなくなってきた。
胸を高鳴らせて頭と体を洗い、垢を擦ってもう他にすることは無い、浴槽につかるだけと相成り、
ふたを開けて、むわッと水蒸気と檜の強い香りの立ち込める中、ついに湯船につかった。

そこから先の記憶はない(ある)。

体が溶けていくようなとはまさにこのこと、ずっと体が底なしにお湯に沈み込んでいくような錯覚があった。
雨の中いそいそと買い出しに出てせわしなく新幹線に飛び乗って以来、休みなく岐阜と旅行と風雨来記を体に浴びせ続けてきたこの旅行、
平日普段家を出ない日もあるのに平均25000歩歩いた3日間、その疲労。アドレナリンが切れて全て体内にドバーっと流れ出し、それが片っ端からお湯に溶けていった。
間違いなく人生で一番気持ちのいいお風呂だった。

体が軽いような、中身が何もなくなり動かせないような変な感覚の中、浴衣に着替えて食事の部屋へ移った。
既に晩御飯は用意していただいていて、てんぷらやらつみれ汁やら刺身やら塩焼きやら、とにかく美味しそうなものでいっぱいだった。
中でも格別に美味しかったのが、ご飯とお水のおかわりをお願いした時にきいた、そば粉と里芋を混ぜて焼いたもの。
猛烈に美味しかったし、この女将さんと何か会話がしてみたくて
「これは中津川とか東濃の方の郷土料理ですか?」と聞くと
「いや、あまり他であるものではないですね、、、というか私が作っただけのものかも」
とどこか恥ずかしそうに笑っていた。ご家庭の味というやつだった。
他にも何か小さい会話はしたと思うが、女将さんは持ち場に戻られたので、俺もテレビの音を少し上げて、久々にゴールデンタイムの番組をご飯食べながら楽しんだ。

ぺろりと平らげ、夜は後輩とラジオをとった。
日程をわざわざこのタイミングにしてどうなることかと思ったが、他に客もいないので普通に収録できた。

そのラジオ。次の回も同じ収録。

ちゃんとそれのおかげで眠くなったので、ちょろっとだけ旅記も書いたが、すぐ限界が来たのでこたつを切って布団にもぐりこんだ。
部屋に来た時からこたつの一部を布団に潜り込ませる形で布団を用意してもらっていたので、気持ちのいいぬくもりの中すぐ寝付いた。



翌朝。
早めのバスで帰る必要があったので、アラームをかけていたがやはり障子から入る明るさで目が覚めた。
視界には和室とこたつと障子と。眺めがよすぎて起きた顔の角度そのままで写真を撮った。

美味しい朝食をいただいて、ちょっと建物の様子を写真に収め、荷物をまとめて宿をあとにした。
靴は新聞紙のおかげでちゃんと乾いていた。

表まで見送っていただいて、重々お礼を言ってお別れした。
俺が歩き始めて振り返っても、女将さんは外にいて今日の空模様を見ていた。

乗るバスは、昨日の馬籠宿の中心にまで上って戻るか、中津川の街まで下りるかしないとバス停が無かったので、30分ほど歩いて街まで下りることにした。
馬籠宿からここまで、そしてここからの道は中山道そのものだったようで、落合宿までの道のほとんどが、江戸の世を思わせる石畳だった。
石畳といっても石でできた床ではなく、大きな石を敷き詰めて作ったタイプの石畳。

途中の看板曰く本当に往時のままの箇所もあるようで、湿って濡れた石と落ち葉の道を静かに歩いて行った。
藤村の碑よりも、昔の旅人もここを行き交ったんだなというのは現実味のある感覚だった。

少し降りてくると医王寺という山中薬師のお寺があり、そちらを覗きつつ歩いていると、小さな境内からおばさまがゴミ捨てに出てきた。
見慣れぬ異邦人におはようございます、と挨拶をしてもらい、挨拶を返すと
「馬籠に泊まってらしたんですか?」と聞かれた。
願ってもない質問だったので、新茶屋さんに泊まっていて、とか東京から来て、とか色々と立ち話をした。
曰く、コロナ前はこのあたりの道もかなりの観光客でにぎわっていたらしい。
何かと人のいない静寂感を感じがちなこの行程だったが、そうかそういうポテンシャルのある場所でもあるんだ、というのは目からうろこだった。
早く元に戻るといいですね、と言葉を交わしつつ別れた。元に戻らないからこそ楽しめた風情も反芻しつつ歩き始めた。
よく考えるとさっき話したおばさまも寺庭さんってことになるのかね。

落合宿と国道のあるあたりまで下りてきて、ちょうどいいくらいのタイミングでバスが来た。

市街地を軽く走りまもなく中津川の駅まで戻ってくると、少しだけ晴れ間が戻っていた。
そこそこのターミナルではあるけれど、岐阜の中では割と奥まった場所にあるこの駅に、俺は勝手に寂れたイメージを持っていた。昨日着いた時も人は少なかったし道中もずっとそうだった。
が、待合室は学生や用事のあるんだろうご老人たちでそこそこ椅子が埋まっていた。
前来た時も昨日も、見かけはしたがよもや営業しているとは思っていなかったコーヒースタンドの中にすらおじいさん達が何人か入っていて、完全に虚をつかれた。
人が思っていたよりたくさんいて賑わっている。古くて風情のある店を、観光客でなく地元の人が席を埋めている。これぞ見たかった街の姿だ。
かなり前からアップデートされていない様子の古い駅舎が、令和の今もきっとその時とほぼ同じ姿でにぎわっていた。
俺が勝手に一人で寂しいところまで山を登って人里離れていただけで、眼下に見えた街並みはその時だけ光っていたのではなく、来る明日に備えて生活を進めていたのである。

(ここから風雨来記のエンディング曲が流れる)

考えれば当たり前のことだが、それがすごく元気を俺にくれた。
俺はこれから快速に乗り名古屋で新幹線に乗り換え東京に戻る。旅は本当に終わる。
風雨来記にまつわる体験をなんとしても終わらせたくなくて、ついにここまで来たが、それももう終わり。
それ自体はやっぱり名残惜しくてたまらないけど、俺が今から岐阜を発ったところでずっと岐阜はそのままあり続ける。
棚田の周りみたいになくなりそうだったりするかもしれないけど、俺が一丁前に気にかけたりするよりもずっとたくさんの人がいろんな場所で生きている。その場所で生活することで旅情をたたえながら。
その中にヒヨ姉や垂やちありみたいな人がいたっていいと思うし、いるだろう。
だったらもうそれでいい。

帰りの新幹線では、味噌カツのおにぎりを食べた。
名古屋には名古屋のものしか無いな。

俺の風雨来記4は、これで終わり。

皮算用:済