わが邦に生まれたる不幸 作・三太
30年以上も前の話となるのではあるが。
『note』というブログを書けるプラットフォーム(*1)でもポツポツと書いているのだが、私は学校卒業後は、当時、大学在学中から関わっていた『障害種別を問わない』『無認可共同作業所』と呼ばれる手作り施設の職員として、通所してくる障害を持った仲間達と、日々下請け作業やバザー、運営費を捻出するための色々な活動を行っていた。
入職して2年目ぐらいのことであったろうか。
地元で開催した障害者関連の大会に、現在の厚生労働省、当時は厚生省と言っていた省庁より、それなりの偉い方が大会に参加してくれていたのだと思う。
来賓挨拶か、それともシンポジウム的な企画の中でのことであったかはもう記憶の彼方なのだが、数百人にもなる参加者、その多くは障害を持った仲間たちや家族、私のような施設職員、関係する支援者等が、多数聞いている中でのその方のある発言があった。
実に、実に単純な一言だった。
『あなた方、無認可の作業所に補助金を出すのは本来は法律違反だ』と。
私自身はそのとき、大会を運営する側の要員として動いていたのだと思う。
会場での席ではなく、舞台袖で、その言葉を聞いていた。
おそらく話の流れの中、その論調から否定的な言葉が出てくるとの予想はしてたとは思うのだが、私はその瞬間、単純に怒っていたのだと思う。
『あなたの言葉を耳にした仲間達(当時の共同作業所では利用する障害者を『仲間』という表現を全国的にしていた)が、いったいどう受け止めると思ってるんだ!』と。
案の定というか、当たり前であったろう。
そのプログラムが済み、施設関連の人たちと合流したとき、私が職員として働いていた作業所に通う障害者から、「もう(作業所に)来たらいかんと?」と、怯えた声で泣かれてしまったのだ。
そのときの「そんなこと無いですよ」という自分の声が、怒りと悲しみとで震えていなかったことを願っているのではあるが、そのときの自分の感情がいかなるものだったのかは、もう記憶には残っていない。
当時、私が働いていた作業所で請け負っていた下請け作業等は、たとえどのようなペースでやっても最低賃金の何分の1にすらならない、まさに『内職』と呼ばれるものであった。
金銭面においてのいわゆる『中抜き』等は行わず、発生した工賃はほぼ完全に仲間の手に渡し、それでも時給100円前後だった。
一日の実質作業時間は四時間ほど。たとえ毎日通っても、月に工賃として渡せる額は、数千円にしかならなかった。
それでも当時においては、同様の施設における工賃の平均をかなり大きく上回っていたと記憶している。
(ここで述べる『ほぼ完全』とは、個数単価に『銭』の単位が残っており、『円』で完全に会計処理が出来なかったこと、そして労働効率としての差を付けず、総額を時間数で割り算かけ算をしていたゆえのことであった。)
私が働く施設においては、バックアップの医療機関が精神科の病院だったこともあり、登録利用者の8割が精神障害を持つ仲間たちであった。
彼らが作業所に通う中で、症状の寛解から回復、退院後の生活能力の維持、再びの入院を繰り返す人など、その予後(という言い方が適切かは分からないが)は様々なものであった。
少しずつ生活のリズムを取り戻していく仲間や、対人関係の調整に時間がかかる仲間など、本当に色々だったと思う。
当時流行りでもあったSST(Social Skill Training)の実践などを通し、様々な条件が『上手く』はまり、作業所外の職場に就職できた仲間もいた。
しかし、そのような『上手くいった』仲間たち=障害者たちも、新しい就職先では、職親制度などでの最低賃金の『除外規定』に『当てはめられていく』ことがほとんどであった。
それでも養護学校(現在の特別支援学校)を卒業した障害者や、病院を退院したものの、一般的な『職場』にははなかなか馴染めない精神障害者等からの『作業所に来て、同じ仲間と会えるだけでも楽しい』『キツいときに休めるのはありがたい』『とにかく家にいるだけでない時間があって嬉しい』、御家族からも『たとえ数時間でも、子どもが作業所に行ってるだけで安心する』『服薬の確認をしてくれるだけでもありがたい』等の言葉は、聞こえてきていたのだと思う。
私や、当時もう1人いた専従職員の給料や活動費は、まさに死に物狂いで獲得した行政補助金(年間で、70万円のときだったか?)と、土日の休みもほとんど無く、様々な場所でのバザーや地域の催しに出掛けての物品販売などで、なんとか賄っていたような状態のときであった。
(このときの状況は、その後の自治体からの補助金獲得運動とその成果によって、大きく変わってはいったのだが。)
そのような状況の中、役所・省庁における指導的立場の人間が『あなた方の施設に金を出すのは法律違反だ』と言う言葉を紡ぐことが出来てしまう、出来てしまった、ということ。
そしてそれは、まさに『無認可』共同作業所という、私が働く施設の状態を、ある意味、実に『正確に』表している言葉であったのだと思う。
それでも、それでも。
現実に生きている『人』の『ある状態』に対応する個別法が無いときではあっても、そこに関わる『人』の存在が『法律に反している訳では無い』はずだと、私は強く思うのだ。
『人』への思いやりを欠いた言葉は、それが発信される場所や条件によっては、その内容がたとえ文言上、あるいは法律や条例上は『正しい』ものであったとしても、それは本当に、いとも簡単に、現実に生きる『人』を傷付けることが出来てしまうと、強く、強く、私は思ったのだ。
私が若い頃(大学在学時、10代後半ぐらいか)、障害者運動や精神障害者に関する歴史を学ぶ中で知り、非常に印象に残っている『ある言葉』がある。
それは、かつて精神障害者の現状を調査された呉秀三先生が残された、有名な言葉であった。
「わが邦(くに)十何万の精神病者は実にこの病(やまい)を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」*2
この言葉が書物に記されてから、すでに100年以上もの歳月が過ぎている。
私は当時から数えれば、もう40年近い日々をなんとか生きながらえてきた。
還暦を目前に控えた(原稿執筆時、満58才)私は、今でもこの文言を、この字面を見ると、涙してしまう。
『この邦に生まれたるの不幸』が障害を持つ人々だけで無く、多くの人々の頭上にどんよりとした影を落としているように思えてしまうのは、私だけのことなのだろうか。
障害を持つ持たない、社会的な繋がりでの弱い側面を持つ持たない、あるいはそれらに限らずとも、ある一人の『人』には、その『人』を個人とする『ある集団』には、様々な側面があるのだと思う。
そのような、様々な状態と状況にある『ある人・ある人達』を排除しない社会を。
この『邦』に生きるに当たって、『生まれたる不幸』を二重に三重に『重ね』ずに済む社会を。
そんな社会を、私はこれからも求めていきたいと思っている。
注
*1
『三太のnote』
https://note.com/santas1966/
*2
1918年 内務省衛生局保健衛生調査室編
『精神病者私宅監置ノ実況及ビ統計的観察』
138頁