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現象学的人間学による人間福祉再考

人間福祉学とは、人間の福祉を考えその確立と質の高度化を築き上げてゆこうとする学問です。これは各様のこれまでの議論のなかで述べてきました。その発端としてはまず人間の生活のしずらさから思考を始める必要があるでしょう。しかしその前に人間そのものをどのように捉えるかを位置づける必要があるでしょう。われわれはこの思考を始めになすべきことに気付きながらも、これまでの福祉論を基礎に議論をしてきました。その論の展開においてやはり人間をどのように捉えるかという問いに答えることが必要になってくるのです。例えば人間を個人として捉えるのか、関係し合う存在として捉えるのか、集団として捉えるのか、競争し合う存在として捉えるのか、このように問いを発し始めるときりがない疑問が発せられることになるのです。そこで最初に戻りますが人間学が根底から必要不可欠になってくるのです。われわれはこの人間学を明確に確立したカントの主観主義的人間学から始めますが、その限界を感じている昨今、これを越えうると考えられる現象学的人間学において人間の存在を問いそれを基礎にしながら、これまで発言してきた人間福祉の本題に入ってゆこうと思います。
    カントによる多大な貢献によって成立を可としたといえる主観主義的人間学は、果たしてどのような特質を持つのでしょうか。それを金子晴勇は個人主義と合理主義に見出しています。そこでこの個人主義と合理主義によって人間学の根底的把握が可能なのでしょうか。この二つの理念で人間を把握しようとすると徹底した対象化をしてゆかねばなりません。対象化することによって分析を細かくしてゆきその本質把握へ至ることに致します。
 現代における人間学の核心の代表的方向を多くの論者と同様に金子晴勇も批判的にではあるがカント哲学に言う「主観主義」上の分析に見出している。1 われわれはこのカント哲学に主観主義的な論をカッシーラーを通じて理解する2。それによると次のように位置付けられる。カッシーラー曰くカントにおいては「数多性から単一性(統一)にではなく、単一性から数多性へ。また諸部分へと進む作用性が規定される」3 とされる。そうしてその個々においては全体が絶えず宿っている。「全体は諸部分から形成されるのではなく,すでに諸部分のうちに方向を与える原理として含まれている」。すなわち個々という部分存在性に全体の総体性が本質性として宿っていると解される。このような理解のもとで全体を統括する本質が個々の真髄を把握しようとする探求がなされていく。それは次第に現代に近づくに伴い目的論的展開という推移を辿るなかで合理主義と個人主義と言う根源把握を確立させてゆくことになる4。現代への状況的推移のなかにおいて,さらに前述した金子晴勇に沿うとともに上に述べてきたカッシーラーの説述と総合的に理解を進めることにより,人間における「主観主義」を「合理主義」と「個人主義」と集約できる内実を有するとして位置付け議論を続ける5ことができる。

1 上掲 金子晴勇著「現代の哲学的人間学」p.35 当該書において,金子はカントについて「近代の主観主義哲学の完成者である」と位置付け議論を展開している。
2 カッシーラー,E.「カントの生涯と学説」門脇卓爾・高橋昭二・浜田義文監修,みすず書房。P.354 カッシーラーはこの著書においてカントの「判断力批判」を本著の最終的なまとめとして位置付け重視している。
3 同書p.356参照
5前掲書 金子は「現代の哲学的人間学」において主観主義の総括として合理主義と個人主義を明示する。同書p.35に,カントの説く「近代思想の二大特質である個人主義と合理主義がいわゆる『超越論的主観性』によって哲学の根底」として集約されている。

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