若い頃の苦労

自分への戒めを込めて。

若い頃の苦労は買ってでもしろという。
若い頃って具体的にいつまでだ。
人生100年時代となった今は下手すりゃ、
50代でも若手になりうる。
(50代に言いたい、お前ら走りきったつもりかもしれないけど、若手だからな。)

唯一分かっていることは、目的がハッキリした「苦労」は買ってでもしろという事だけだ。
逆に言うと、目的がない中、振られる「苦労」に埋もれている時間は、ない。
100年時代といえど、起きて世の中で実稼働できるのは睡眠時間を除くとそこまで人生は長くないのだ。
あっという間に時は流れて、物事や思惑などすべての事象は関係なく、みんな簡単に一生を終える。

面白いなぁ、こんなにクタクタになるけど、クタクタになるほど動けてるということで、生きているってことで。それが、面白い。

動くしかない、短い人生。
路傍の石でもなけりゃ、動かなきゃ、短い人生でも、つまらない。

他人のためじゃなく、やりたいことのために、自分の為に、働ける事が、本当に楽しい。

ニュースに出るセンセーショナルな人の人生を可哀想だとか、不憫だとか、災難だとか、勝手に評価して、分かった気になるな。

ただ、人間は色んな人がいるもんで、他人の事が気になって気になって仕方がない人もいるのだ。
自分のことに集中できず、周囲を悪気なく利用しようとしたり、または無意識に嫉妬して、足を引っ張ったりして楽しんだり。
そんな事に囚われたくないが、囚われないためにきちんと自衛する事が必要だ。
自分が知る狭い人たちの関係の中で、相対的にしか自分の毎日を捉えられない人もいるのだから。

人の生き死にや生き方は、それ自体を解釈したり評価したりできる代物じゃない。
戦争や災害で一瞬にして亡くなった大勢の、世界中の、なんなら太古の昔からの人の死を、評価するだなんて馬鹿らしい。
なのに、それなりの情報が手に入ると、知った気になるし、分かった気になるし、それで評価して、自分の頭の中でカタをつけたがる。

素晴らしい人生も、最低な人生も存在しない。ただ、毎日があっただけ。その人が感じた時間があった。それだけだ。

ましてや、自分の人生を自分が評価するなんておこがましい。最初から、人の人生に意味づけなんて本当はできないから。
「虚しい人生だった。」というより、「今、虚しいと私が感じた。」それが全て。

他人の評価を欲した父の言葉も、
自分の評価を欲した母の言葉も。

どちらも形を変えて評価を欲していたが、
残念ながらどちらの評価も、最初から存在しない。評価から解き放たれるのは難儀だけど、でも、現実そうなのだ。
親であっても、その在り方や、一生を、分かることはできないな。
分からなくて当たり前だし、分かる必要なんてない。

「人に興味ない」は褒め言葉。上司が私を見抜いて言った言葉だけど当たってる。
目的以外で、好きな人以外に興味持ってる時間なんて人生で残されてないから、むしろ好都合な性分だ。

【裏方、縁の下、献身的な自己犠牲】

いつか報われることを双方が期待したような、このワードが、大嫌いだ。
道徳的に良しとされ、教育現場でも世間的にも好かれる、このワードが身を持って本当に嫌いだ。
金貰わなきゃ、誰がやるもんか。
縁の下は窮屈だ。つまんねーし。
てか、そもそも、縁の下に居るって、もはや妖怪じゃねーか。

アメリカのコロナ禍でエッセンシャルワーカーをヒーロー扱いして煽てたりしたのと、おんなじ空気を感じる。

そうやって、一生陽の目を浴びない人がいて自分に裏で尽くしてくれる人がいたら、尚且つそういう人が牙を自ら抜いて境遇に満足して大人しく自己陶酔してくれてたら、自分が快適に当たる陽の目が増えるもんな。

他者を利用する甘言を真に受けて、本当の気持ちを自ら塞ぐ言い訳に使い、いつの間にかその言葉に縛られて、「個人」を押しつぶされ続けて、妖怪に成り果てた人を見ている。

そんな妖怪は「自分の声」をずっと抑え続けてきた代償で、「他者の自分の声」に人一倍敏感だ。少しでも他者が「自分の声」に正直になろうとするのを嗅ぎつけると、自ら虐めた自分と同じように、押さえつけることに必死になる。
妖怪ウォッチだって、そんな厄介な奴、お断りだ。
自分のエゴは、自分で大切にしろよ。他人に守ってもらおうなんて、いい年して甘えるな。

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