青い呪い

 去年2022年11月のことだ。G20がインドネシアのバリ島で開かれた。ミヤネ屋というニュースバラエティ番組で、中国とロシアの代表団が滞在しているというムリア・リゾート(Mulia Resort)ホテルからの中継を流していた。空は一面均一な薄曇りで、それがそのまま落ちてきたかのように、湿った肌寒そうな明るさに包まれた景色が映し出されていた。

 それを見ていた私は、何か不思議な感覚を覚えた。画面に映し出された、ホテルの棟にコの字型に囲まれた中庭の、中央に陣取る仰々しい庭園、立ち並ぶ人型をしたモニュメントみたいな照明、植え込みに遮られて、プールサイドに優雅に配置されたビーチチェア……。そうだ、その先にはプールを分つように沈み込んだバーカウンターがあって……、――そう、今まさに画面に映し出されたそれだ。私はここを知っている。――いや、でもあの日は違った。あれは雲ひとつなく晴れ渡っていて、嘘みたいに鮮やかに青かった夏の日で、私は小学校の低学年だっただろうか……

 じっとりとした暑さが蘇ってきた。熱帯植物の放つ独特な芳香と、エスニックなお香の混じり合った匂いが、記憶と共に鼻の奥に立ち上ってきた。

 そのバーカウンターには、アロハシャツを着てサングラスをかけた、浅黒い肌のダンディなバーテンダーがいて、私がなんとなく子供が近寄ってはいけない雰囲気を感じながらそれを遠巻きにジロジロと眺めていたのは、カウンターの陰にひっそりと並んだ酒瓶が、深海のような青い色で光って見えて綺麗だったからだ。
 ――子供向けでは無い物の、本質的では無い部分ほど、子供の心を深く惹きつけるのは何故だろう。意味もなく携えたくなる煙草の箱や本の装丁、見ているだけで気持ちが高鳴るように揃えられた工具や画材やメイクセット、危険な妖しい輝きが惹きつける刃物とピストル……。本当は大人の方が、ただ無心にうっとりとそれで遊びたかっただけではないのか。――

 プールサイドではまばらに、白人の老夫婦なんかが、打ち上げられたセイウチのように仰臥していた。そのまま誰もプールには入ろうとしないのを、無邪気な子供だった私は不思議に思ったが、そんな事はすぐに忘れて、青く透き通った水と空の間を行き来することに没頭した。
 ――なんで子供はプールが好きなのだろう。あの水溜まりに宿った魔力は、誰が呪ったものなのか。豪奢なテーブルのセンターピースに据えられたフルーツ。誰も食べないそれを呪ったのは、鮮やかな色彩なのか、甘く腐らせるエチレンガスなのか。――

 気まぐれに水から上がると、母がボーイを呼んでヤシの実を買ってくれた。恭しくカートに載せられて運ばれてきたそれは、青く丸々としていて、ハンドボールぐらいの大きさがあった。そのさらりと滑らかな表皮を、ナタのような刃物で何度か切りつけて、繊維質の固い殻がメリメリと剥かれていくのを、少し勿体ないような気持ちで眺めた。そしてストンと挿されたずんぐりとした赤いストローから流れ込む、初めて口にする天然の味の、ほんのわずかな青臭いえぐ味に、ナイーヴだった私は一口で顔をしかめた。
 ――三ツ矢サイダーが恋しくなった。透明なグラスの中の透き通った銀河と、清涼な風味。――それは呪われていない、人工的で、死んだ、透明で綺麗な味。ああ、そこに心臓を沈めたい。――

 若い白人のカップルがプールサイドに現れた。――それは20代後半に見えただろうか、90年代の情熱的な洋画のワンシーンのような、まるでこのカットの主人公のように豪奢な彼らがいちゃつく姿が視界に入ってきて、私はいよいよ居心地が悪くなってきた。すこしHなシーンを見てしまったようなバツの悪さと、世界に馴染めない、――のけ者にされているような妬みに近い感情を感じて、憂鬱になった。
 私は部屋に戻ると言って鍵を貰った。このあと何やら催し物があるから見て行きなさいよ、と引きとめられたが、物憂い私の意思は変わらなかった。
 燦燦とした太陽から逃れると、部屋は洞窟のようにしんとしていて落ち着いた。その陰の中からの窓越しに眺める外の景色は、高級な大型テレビに映し出された映像のように明瞭としたコントラストで、海も空もわざとらしく青々と輝いていた。

 部屋のテレビを点けると、『21エモン』がやっていた。それは初めて見る番組だったが、タイトルは日本語のまま読めた。昔の『ドラえもん』によく似た絵柄に、現地語の吹き替えの声質もよく馴染んでいて、既視感に似た不思議な感覚に陥った。知っているようで知らない、理解できそうでできない世界に、酔ったようにぼんやりとそれを見ていたんだ……。

 ふと我に返ると、テレビに映し出されていたのは秋川渓谷の紅葉だった。さっきまでが嘘だったかのように、もはや遠くインドネシアの事など影も形もない、うだつのあがらない日常的な日本のテレビになっていた。
 私はなんだか、今居る場所も時間も、――自分の存在が信じられなくなって、さっき見たはずの内容をネットで検索してみた。しかし「G20がインドネシアのバリ島で云々」という程度の話しか出てこなくて、あの青いムリアリゾートの事は全然ヒットしなかった。

 酒瓶も、プールも、海も空も、もうあれほど青くない。煙草も剃刀だって、もうすっかり惹きつけない。ココナッツジュースのほのかな青臭さだけ、呪いのように鼻に残っている。

誰か呪いを解いて。

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