水木しげる作品紹介その1

みなさん初めまして、色々と水木しげる先生の作品のどれを紹介しようか迷いましたが、今日はこの作品を解説していこうと思います。

「テレビくん」

©️水木プロ 講談社

この作品は1965年の8月15日に『別冊少年マガジン』の夏休み特大号で掲載された事実上の水木しげる先生のメジャーデビュー作です。
ですが皆さんはこう思いますよね。

「え?水木しげるってデビューしてなかったの?」

と…
これには語弊がありまして…
実は水木しげる先生は貸本漫画家としてデビューはしましたが、メジャー雑誌では一度もデビューしてませんでした。
貸本というのは今で言うと同人誌のアンソロジーみたいなものでした。
例えば水木ファンならご存知である「墓場鬼太郎」も実は「妖奇伝」と言うアンソロジーの中で生まれた作品です。

では前置きが長くなりましたんでこのテレビ君の作品をネタバレなしで紹介していこうと思います!

【テレビくんのあらすじ】

子供達の間でテレビの中で生活する不思議な少年
“テレビくん”が話題になっていた。
だけど、三太と言う少年は家が貧乏で毎日新聞配達をして生計を立てていたのでテレビを持ってなくて話題についていけなかった…。
そんなある日、テレビくんそっくりの山田くんが転校してきてクラスは大騒ぎ!
だけど山田くんは「テレビくんじゃない」と真っ向から否定し、次第に山田くんがテレビくんだと言う噂は直ぐになくなった。
だけども山田くんはよく三太に自転車やなんと小さなテレビをプレゼントしてくる。
三太は次第に山田くんに興味を持ち、テレビくんの秘密を知ることになる。


「あれ?普通にいい話?」

って思った方もいますよね?
私も最初はそう思いました。
水木しげる先生の作品って皆さんがイメージした通り
「不気味、怖い、不思議」が詰まった作品が多いですが、このテレビくんは不思議と人情がいっぱい詰まった作品です。

ではなぜ水木先生はこの作品を描いたのか?
私なりに解説していきます。

【テレビくん誕生経緯】

水木しげる先生はこのテレビ君を制作するまでの間、実はものすご〜く貧乏でした。
先ほどの貸本漫画家と言うのは
「雑誌よりも紙質が悪く、とにかく原稿料も安かった」と言います。
「え?でもWikipediaでは貸本漫画家は結構儲かっていたぞ!」と言う方もいますが…それは毎月毎月新作を発表したり大ヒットすることが条件です。
しかも貸本業界はとにかく零細企業が多く、原稿料が支払われないと言うのもよくありました。
まだ全盛期の時は貧乏だけどもそれなりに生活知ってたらしいですが…
『テレビ』が出てきて次第に子供たちが貸本ではなく「テレビ」に移ってしまいました。
水木しげる先生の作品は元々ファンはいたのですが貸本のターゲットは基本小学生がほとんどでしたので、もともと読者層が少なく、どんどん生活が苦しくなる一方で水木しげる先生本人も
戦死はしないが餓死がじわじわと迫ってきた
と言うくらい貧乏生活を味わってきました。

1964年頃、そんな水木しげる先生に逆転のチャンスが現れます。
それは青林堂で刊行された
月刊漫画ガロ」が出てきたところからです。

©️青林堂

この青林堂の社長である長井勝一さんと水木しげる先生は「墓場鬼太郎」の時から交友がありました。
その長井さんがまた零細企業ですが出版社として立ち上げてできた雑誌が「ガロ」でした。
ガロはジャンルはなんでもありで、読者のターゲットも大学生や社会人であり、水木しげる先生にとってはチャンス到来でした。

水木しげる先生はガロで多くの読み切りを発表し
「カムイ伝」の白土三平先生や
「ねじ式」など不思議な漫画を作るつげ義春先生
それらの漫画家と同等に並ぶ看板作家となりました。

そしてもう一つチャンスが到来します。
そうです、ここからテレビくんが誕生するきっかけが生まれます。

1964年頃に
週刊少年マガジンから執筆依頼が来ます。

この頃のマガジンはW3事件(ワンダースリーじけん)の影響で手塚治虫先生のポップで可愛らしい路線ではなく、劇画など少し大人路線で子供をつかもうと躍起になってました。
そこでガロや貸本で活躍ししていた作家さんに目をつけたのです。

マガジンの編集者である内田勝さんは早速水木しげる先生のご自宅に行き、執筆を依頼しました。
掲載会議では「SFものを描かせて様子をみよう」と決まっていたため、当時はSFアニメがブームだったのでそれに乗っかろうとしていました。
ですが水木しげる先生は一度断ったのです。

と言うのも水木先生はSFや宇宙物はあまり得意ではありませんでした。
そして得意じゃないジャンルで失敗して去っていった漫画家も多く見ていたので断ったと言います。

編集部内はもうダメだなと思ったそうです。

ところがマガジンの売り上げがどんどんサンデーに追いつけない状態になったと言う事で、編集長は内田勝さんに変わり、早速また水木先生に執筆依頼をしたのです。

今度は
「どんなジャンルでもいいが面白くインパクトのある作品を描いて欲しい」

とのことでした。

水木先生はそれならと思い、早速構想に取り掛かります。
何せ初めて少年誌というメジャー雑誌で描くためそれまでの絵柄ではなく、丸っこく、そして可愛く描くのを徹底し、子供達が理解しやすい話にしたと言います。
でもなぜテレビくんなのかは不思議ではありますが…。

漫画の構想をした時、実は水木しげる先生は結構悩んでいたと言います。子供達が喜び印象が残る主人公でしたので、どうしても従来の不気味な話はできません。かと言って自分のスタイルを変えるのも問題で迷っていたある日、テレビを買うのですが、とりあえずテレビを見て研究したと言います。
いろいろな資料を集め、色々なテレビを見てふと思ったのは

「テレビの中に入れればなあ…」と思ったそうです。

その発想から生まれたのが
テレビくんでした。

テレビくんを執筆し、1965年の8月号に別冊少年マガジンで掲載され、メジャーデビューし、しかも原稿料も入った事で喜んでいたと言います。

のちのインタビューによるとその原稿料が貸本時代と比べて桁が違うと思い、
妻の布枝さんは「こんなにもらってええの?」と驚いていたと言います。
当時の貸本の原稿料がどれだけ安かったのか…今の私達からは想像もできないですが…。


【最後に】

いかがでしたでしょうか?水木しげる先生の初のメジャーデビュー作
「テレビくん」の紹介をして行きましたが、テレビ君をもっと知りたい方はぜひ本屋にも売ってありますし、AmazonやAmazonプライム、U-NEXTでも書籍が買えます!
iTunesにも水木しげる全集でテレビくんが掲載されてますので気になる方はぜひ読んでみてください!


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