パスピエについて

「パスピエ」ってバンド知ってる?
2010年代前半に結構勢力的に活動していて、最近も細々と活動してくれてはいるみたいなんだけど、有名なのはその頃の「とおりゃんせ」とかかな?

キーボードが入っていて電子音をバリバリ多用するタイプのバンドなんだけど、和のテイストもあったりして昔は”和ロック”なんて呼ばれ方もされていたよね。

ちなみにキーボードの成田羽田さん?が東京音大出身でバンド名もベルガマスク組曲のパスピエからそのまま取ったんだって。

ダラダラ書いちゃったけど、このページではパスピエの曲の切なさについて書こうかな。
「最終電車」とか「スーパーカー」とか「プラスティックガール」とかみんな聞いて〜。すごいから。
電子音と哀愁って一見程遠い領域に思えるんだけど、パスピエの手にかかると両者の境界がすごく近くなるんだよね。

特にね、聞き込んでた時代から10年くらい経った今聞き返すとすごいわけですよ。
積み重なった時の厚みがそのまま切なさとして昇華される感覚?

例えば「最終電車」。
最初はエレクトリックピアノから始まるんだけど、出だしからすごい切ない!一小節ごとに平成の景色がコマ送りで頭の中に次々浮かんでくる。。。

学校帰りのバスの中でぼーっと宙を見ながら揺られていたこととか、
部活の大会で行った競技場のすぐそばを一人で散歩して見つけた隅っこの隠れ家とか、
近所の川辺に反射する夕日とか、
夏の昼下がりに暑さで平衡感覚を溶かしながら歩いた神社の坂道とか、
そういう自分だけの心の片隅にある思い出とも言えないような過去の風景が脳裏にどんどんスライドショーのごとく駆け抜けていくわけです。

でもこれも、当時から何年も経過して”振り返るフェーズ”に入った今だからこその体験なのかな、と。

当時の音楽の聴き方って、歌詞の内容やメロディを、その当時オンタイムで体験していた心の葛藤とか、身の回りの風景と照らし合わせながら聞いていた気がする。

でも20歳を超えてぐらいからは、直近の自分自身というよりは、これまでの人生全てひっくるめての自分と照らし合わせて聴くことが多くなったかも。
記憶を掘り起こすパス的な。
普段は忘れているけど、何かの拍子で脳裏に鮮やかに思い起こされる”あの瞬間”を思い出すための舞台装置としての役割を音楽にあてがっている感じね。

音楽を聴くと、それまですっかり忘れていた当時の悩みとか、辛かったことがありありと蘇ってくる。なんであんなことで悩んでいたんだろって思いつつも、でもあの頃は本当に必死だったんだよね。よく頑張ったね自分。あの時の自分じゃあれが精一杯だよね。頑張ってくれてありがとう。って過去の自分を抱きしめてあげたくなる。

そして翻って、今の自分に喝が入る。
昔の自分は頑張っていたよ。昔の自分から受け取ったバトンをちゃんと未来の自分に繋げようって思える。

なんだか、音楽を通して時間を旅行してるみたい。笑

これも当時音楽を心の支えにしながら毎日を必死に生き抜いていたからこそできることなんだよね。
そもそも音楽との思い出が希薄な人にはできないと思う。
音楽に自己を投影しながら日々暮らすうちに、その曲との結びつきが強まって、10年経った今でも繋がっている。そんな感覚。

で、やっとパスピエに戻るけど、パスピエってそういうタイミングで聞くには適切!あまりにも切なすぎる!と思うんです。

切なさを狙ってない曲こそ一番切ないから!

なんかパスピエの曲って一つ一つの要素を切り出すと全然切ない要素ないのに、全ての要素が合わさった瞬間すごい切なくなるのよ。

だから今聞くと胸がぎゅっと締め付けられる。

そういうこと。。。。

もう後半何言ってるのかわかんなくなったけど、このノートはこういう使い方をしようと思ってます。
普段は仕事で、やれ誰にでもわかる文章を書けだの、やれテキストコミュニケーションだの、やれ簡潔な書き方だのとやいやい言われるけど、そういうシンプルな書き方ばっかりしてたら自分じゃない誰かが完成しそうで怖いの。
人って言葉で物事を考えるでしょ?だからその前提である言葉が変わることって自分自身の考え方も変わるってことだと思うから。

だからあえて頭の中の本来の自分を垂れ流す場所が欲しい。
抽象的で、一つの文章が長い、およそビジネスとは逆をいく自分本来のテキストをここでは炸裂させていく所存です!
(ちなみに文章をダラダラ書く癖があるせいで、高校生の時担任の国語教師に「紫式部みたい」と言われました。ダラダラ長いけど、主述の構成面はおかしくないから文としては成立していて、特徴的らしいです。笑)

このクソみたいな社会に乾杯!
また書きます。

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