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【小説】ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ 第29話

第29話 防A省の妻の思うこと

「でさ……」
 落花生県の県庁所在地である落花生市に住む友達は、言葉をそこで止めたあと、続きを一気に喋りました。
「もしそういうことになったら、ダンナさん、行くの?」
 私は軽いショックを覚え、どう答えようかと頭の中がぐるぐるぐると……
「……」
「……」
 電話の向こうで友達も黙っていて……。私は友達の表情を思い浮かべます。電波にのって友達の緊張感まで伝わってくるようです。わかっています。彼女は私を心配しているのです。これはちゃんと答えなければ……
「うんとね、うちの夫は行かないんだ。迷彩服着ない人だからさ」
「え⁈ そうなんだ、行かないんだ……、そっか……」
 そうとわかると、友達はほっとしたようで、その後私達はくらだない雑談をして楽しい気分で電話を終えました。通話時間を見ると1時間半以上も喋っていたようです。
 私は慌てて引戸を開けました。居間のテーブルの上にきいちゃんのぬいぐるみの体が立っています。こちらからでは横向きなので、きいちゃんの正面に回り込み、「きいちゃん」と呼びかけます。しかし返事はありません。あわわ、もしかして、戸を閉めたままずっと電話していたから拗ねちゃってるのかな?
「きいちゃん、きいちゃん」
 じっときいちゃんを見つめますが、微動だにしません。いえいえ、元々きいちゃんの体はぬいぐるみだから動けないのです。ええと、きいちゃんを喋らせるには……
「きいちゃん、クイズです。あっちゃんがお仕事している場所はどこでしょーか?」
「ちゅーとんち」
 間髪入れずにきいちゃんは答えます。言い方が得意気です。やった! きいちゃんが喋った。これで、こっちのもんです。
「わあ、きいちゃんすごい、さっすがぁ~」
「うん。きいちゃんわかるよ。タワーあって、フェンスなか、キある。キ、カラスのママ、タマゴいる」
「あはは。卵はもうカラスの子供になってるね」
「そーなの? きいちゃんみたい」
「そのへん飛んでるかもよ」
「きいちゃん、カラスこども、みたい」
「わかった。今度お散歩いこう」
「やったぁ!」
「フェンスの外から見るだけね」
「しってる、きいちゃん、みかちゃ、フェンスなか、はいれない」
 私は指先できいちゃんの白い小さな頭をなでなでしてあげます。そうです。夫が働いているのは駐屯地です。
 ここでふと疑問に思った方もいるのではないでしょうか? そうか、駐屯地か。ところで、よく、基地って聞くけど、それとどう違うの? それとも同じようなものなの?  
 もしかしたら知っている方もいるかもしれませんね。実は私は夫に訊くまで、似たようなものだと思っていました。正直、私が演劇人だったときには、駐屯地という言葉には全く馴染みがありませんでした。まあ、普通はそうですよね? 日常的に使う言葉ではないし……。皆さんはいかがでしょうか?
 思い返してみれば、私の地元のまあまあそばに自E隊がありました。子供の頃から知っていましたが、普段その存在を思い出すことはありません。
 大人になりまあまあ地元で派遣の仕事をしていた時、派遣仲間の人とこんな話をしたのを思い出します。
A子「ねえ、○○(地名)の自E隊に入れる日があるんだって。行ってみる?」
私「へえ、そうなんですか。自E隊で何するんですか?」
A子「なんかね、出店とかあって、それから婚活パーティあるらしいよ」
私「え⁈ 婚活パーティ?」
A子「うん。やっぱ男ばっかで出会いがないから、そういうのやるんじゃないのかな。参加してみない?」
私「うーん……」
A子「なんか、中に住んでる人達って、結婚しないと外に住めないから、結婚願望強いらしい」
私「へ、へぇ。でも、あたし、筋肉ありすぎる人ってちょっと苦手で……」
(※筋肉云々とは筑後川美花の個人的な好みです。実際、鍛えている人は多いと思われます。精進しているのに失礼です)
 この時私は参加を断りました。まさかのちに、防A省の人と結婚することになるとは、想像すらしていませんでした。まったく、人生というのはわからないものですね。
 ああ、これはいけません。話がそれてしまいました。話をもとに戻しますね。
 派遣仲間のA子さんとの会話を思い出してみても、基地という言葉も、駐屯地という言葉も出てきません。つまり、A子さんも私もその場所の正式名称を知らなかったのです。
 それから、テレビや新聞などでは、駐屯地という言葉よりも、基地という言葉の方が耳にしたり、目にしたりが多いように感じます。気のせいでしょうか? 「〇〇基地では~」という感じのフレーズを耳にしているように思います。特に、目を引く飛行機や船の映像、それからアメリカや他国の映像とともに流れてくるような……
 結婚して半年ほど経った頃でしたか、ふと、疑問に感じたことがあったんです。
 現在、夫が働いているのは、〇×駐屯地です。就職してから今までの勤務地をすべて聞きましたが、ほとんどが駐屯地だったようなのです。(違う名称の場所もあるようですが、それはまた別の話で。とにかく基地ではありませんでした)××駐屯地、△△駐屯地、あれ? えーと……
「駐屯地ばっかりなんだね? でさ、よく基地って聞くけど、あっちゃんが働くのは基地じゃないんだね?」
「駐屯しているわけだから」
「え? 駐屯……」
「〝陸〟は移動するから。駐屯している場所が駐屯地」
 夫が言う陸とは、R上自E隊のことです。
「ああ、そうか、移動して駐屯すると……」と私はわかったような、わからないような……
 そうか、陸地をずっと歩いて? まさか、今は馬には乗らないだろうから、OD色した専用の乗り物で行くんだろうな、と思ったところで、はっとしました。
「ええと…、あっちゃんも行くの?」
「行かない」
「あ。そうなんだ。行かないんだ……」
「部隊を見送って、部隊が帰ってきたら迎える」
「そうか。そういう仕事ってこと。なるほどね……」
 夫が行かないことに、ほっとする私でしたが、心の中がもやもやと火事の煙か霧が発生したかのようでした。だって、無関係な民間人じゃなくて、関係大ありなんだから、とてつもない力に巻き込まれてしまうんじゃないの⁈ 可能性はゼロじゃないよね?! と思ってしまいます……
 私はきいちゃんのぬいぐるみの体を抱き上げ、ぎゅっとしました。
「みかちゃ、く、くるしよぉ~」
「あ、ごめん、きいちゃん、強くしちゃったね、ごめんごめん……」
「どしたの? おかお、おめめ」
 きいちゃんは私の顔色までしっかり見ているらしく、ごまかせません。
「なんでもないよ、きいちゃん」
「うーー、うーー」
 きいちゃんは考えているようです。
 私の方は考えるとキリがないので保留にして、糠床の一番底へ沈めておくことにしました。
 だけど、行く人達は確かにいるわけで……。そういう人達は家族にどのように話したり、説明したりするのでしょうか? 配偶者、子供、親に……。子供は年齢にもよると思いますが、配偶者や親は万が一の時の覚悟は常日頃からしているという事なのでしょうか? 残念ながら、缶車の奥さんたちとそのような話はしたことがないのでわからないのです。
 話は違いますが、かつて大きな震災があった時、夫(結婚前でした)は一週間帰れず寝なかったそうです。つまり、またもしそのようなことが起きたら、私のような者はひとりぼっちで耐えなければなりません。ここには友達も親、親族もいないからです。
 缶車の住人で助け合ってください、というような話をチラッと聞いたことがありますが……
 きいちゃんの頭をなでなでしながら夫の顔を見たら、夫の顔は右斜め下を向いていて、瞳はとても静かでした。まるで風がぴたりとやんだ湖面がそうであるような静けさで……
 そういえば、こういう話をする時はいつもそうなのです。そのことを、本人に言ったことはありません……。私はそのことが、少しこわいと感じていることに、たった今気づきました。
「陸が駐屯地。かいくうが基地ばい」
 夫の瞳は家での夫の瞳に戻って説明を始めましたっけ。私はきいちゃんを抱っこしたまま聞いて……。筑後川家のあの日の夜は更けていったのです。


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