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【小説】ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ 第5話

第5話 雨の日の傘事情

「あっちゃん、いってらっしゃい」
 と私が言うと、トキのぬいぐるみのきいちゃんもまねして言います。
「あっちゃ、いってらしゃーい」
 夫は慣れない笑顔になろうとしますが、あまりうまくいっていません。それに、朝は特に……、いい顔はしていません。頭に仕事のことがあるからなのでしょう。小さく「いってきます」と言い、ドアを開け出て行くのです。
 私は、ドアの鍵を閉めると足早に窓のところへ移動します。
 皆さん、おはようございます。
 私は筑後川美花です。妻の方です。あ、もう、しつこいですかね? …すみません。
 今日は、私がへええと思ったことをお話します。
 私達は晩婚でも一応新婚なので、朝夫が出勤するときは窓からお見送りをしているんです。因みにここは、缶車(注:誤字ではありません。缶車についてはまた後日お話しますね)の3階です。
 平日の朝は、3階の窓から出勤していく夫を見送ります。
 夫はジャケットに白のワイシャツ、黒のスラックス姿です。今日は雨が降っているから黒い傘を差しています。夫は振り向き傘を少し傾け私に向かって片手を挙げてみせます。私もタイミングを逃さないように挙げたままにしていた手を振り返すのです。夫は振り向いた時に自分の数メートル後ろに他の缶車の旦那さんがいたことに気がついたのでしょう。いつもは、曲がり角の直前でもう一度振り向き手を挙げるのに、今日はそれをしません。
 男の人って大変なんですね。妻に手を振るのに遠慮はいらないと思うのですが、女々しいとでも思われるのでしょうか? それは、女性も増えているとはいえ、まだまだ男社会の職場のせいか? あるいは、夫が昭和生まれのせい? うーん……
 それはそれとして、夫の後ろを行くのは迷彩服の旦那さんです。傘は差しておらず、まるでマントのように大きな、迷彩柄のレインコートを着ています。どうも、迷彩服の旦那さんたちは傘を差しちゃいけないらしいんですよ。先日の雨の夜に夫が言っていました。私が驚いて、
「あっちゃんも傘だめなの?」
 と聞くと、「俺達はいいんだよ」と教えてくれました。だけど…と夫は話を続けました。
 どういう時かはわからないのですが、屋外の仕事のときに(内容は国家機密かもしれないので、私はあれこれ質問しないようにしています。本心は質問攻めにしたいけど…)。夫の話によると、まわりの迷彩服の人達が傘なしでいる時に自分だけ傘を差すわけにいかない、ということらしいです。
 私は思いました。迷彩服で傘を差さずに雨に濡れる仕事も大変だけど、スーツ姿で傘を差さずに雨に濡れる仕事も大変だな、と。
 夫よ、本当にお疲れ様ぁ!
 だけど、妻としては……
「ねえ、きいちゃん、あっちゃん、お仕事で傘させない時あるんだって」
「ふんふん」
「雨に濡れちゃって大変だよねぇ」
「タイヘン、タイヘン」
「スーツが台無しになっちゃうからね、クリーニング代がかかるんだよ。作業着だったら、家で洗濯機回せばいいのにさぁ」
「ふんふん」
「ねえ、そう思わない? きいちゃん」
 私はきいちゃんの小さな顔を覗き込みます。トキのきいちゃんの、ぬぐるみの体は動けなくて、ガラス玉のような目はじっと私を見ています(見ているように感じます)。
「ふんふん」
 ほんとにわかってるのかなぁ? きいちゃんたら。私はきいちゃんの小さな白い頭をそっとなでなでしてみるのでした。

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