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【父のつぶやき】妻・瑞穂との暮らしを振り返って(その2)

妻・瑞穂との出会いから結婚まで

 妻・瑞穂は、父・近藤武樹と母・百合子の長女(一人娘)として、1944年7月16日に愛媛県新居浜で生まれました。生まれて間もないころに父・武樹が亡くなり、母・百合子は実家である愛媛県今治に帰ります。そして百合子は瑞穂を育てるために洋裁を習い、必死で働くことになります。その間、瑞穂は百合子と暮らしながら、母方の祖父母に面倒をみてもらいました。近くに住む百合子の兄夫婦に助けられながら、そこの従兄弟と兄弟同様に育ててもらいました。

 妻・瑞穂は、小さい頃から歌が大好きで活発な女の子であったようです。学校では合唱部に所属し、大きな口を開けて歌う姿は目立っていたそうです。勉強も比較的出来たようで、今治西高校へ進学し、小学校の教師になるために、愛媛大学教育学部に入学します。そして大学一年の時に、広島から愛媛大学文理学部に入学していた同学年の私と出会うことになります。

 私が妻・瑞穂と初めて出会ったのは、1964年1月11日午前10時40分、愛媛大学教養部の大講義室の出入り口でした。友人が、「お前を探している女の子がいるが、会ったのか?」と聞いてきたのです。その女の子は、私が多くの本を持っていることを聞きつけて、貸してもらいたいと言っているとのことでした。私が「知らない」と答えると、友人は「そこで待っていろ」と、ひとりの女の子を連れてきました。それが、妻・瑞穂との初めての出会いでした。

 人づきあいが苦手で、根暗な人間嫌いであった私にとって、彼女は正反対の人柄でした。明るくて多くの友人と付き合い、真剣に社会や人間の生き方を考えている可愛い女の子でした。私は、すぐに彼女が好きになりました。彼女が求める本で、私が所蔵している本を貸したことは当然で、私の持っていない本も買い求めて彼女に貸すほどでした。彼女の授業時間を調べ、授業が終わるころを見計らって、教室の前をぶらぶらし、偶然に会ったかのようにして彼女に声をかけていました。

 ほどなくして私は、彼女に好きであることを告白しました。彼女は聞いたとたんに笑いこけました。しばらく笑った後で真剣な顔になって、返事は後ですると言いました。数日後、彼女からノートが渡され、そこには「付き合う気持ちはない」ということが書かれていました。付き合わなくても友達でいようというのが、彼女の気持ちでした。

 私はショックでしたが、仕方ないという気持ちが半分でした。自分には、男としても、人間としても魅力がないことは十分に承知していたからです。友達でいられるだけでも喜ばねばならないと自分に言い聞かせながら、彼女との接触は続けました。彼女が好きだという感情は増すばかりです。自分はどうすれば良いのか、悩みました。

 自分は彼女が好きだ、彼女に恋している。しかし自分は彼女を求めているだけであり、彼女は自分のことを求めていない。愛してくれない。彼女に愛されるようになるためには、彼女を愛する、彼女のために自分が何かをすることが必要なのではないか。彼女が求めていること、彼女が喜ぶことを自分がおこなうべきではないか。彼女を恋するだけで、彼女を愛さなければ、彼女に愛される存在にはなれない。

 自分の気持ちは横において、彼女のために自分が出来ることだけを考えよう。そう考えました。自分に出来ることとして、彼女が関心を持つテーマを自分も勉強して、彼女にアドバイスする、本を買って自分も読んで、貸してあげる。そんなことを繰り返していました。でも彼女と、単なる友人として会い続けることは苦痛でした。もう彼女と会うことをやめようと、幾度か考えました。

 その頃、突然、彼女から呼び出され、自分も好きになったと告白されました。天にも昇る心地で喜びました。私たちは付き合いはじめました。私は、すっかり舞い上がってすべての想いを彼女にぶつけました。自分のすべてをさらけ出したのです。それは彼女にとって大きな戸惑いと負担をかけることになりました。ほどなく彼女から、付き合うことをやめようと告げられてしまいます。二度目の失恋です。

 自分の嫌なところ、本当の自分を知られてしまった。別れを告げられて当然という思いはありました。しかし精神的な打撃は非常に大きかった。私は、別れたくないと彼女にしがみついていきました。でも彼女が自分を嫌いになる理由も、納得できます。自分は、もっと強くならなければならない。彼女に嫌われる部分を無くさなければならない。自分を変えていく、もっとしっかりした人間になることを誓いました。

 彼女に対しては開きなおりました。「人間は誰でも欠点、弱点を持っている。人間の価値は、その欠点・弱点を克服しようと努力する点にあるのではないか。完全な人間に憧れて、それだけを好きになろうとすることは、お前の人間としての弱点ではないか。」それが、私の言い分でした。

 しかし、言葉で言うだけでは彼女を納得させることは出来ません。自分は彼女と距離を置きながら、自分を強くすること、自分を変えていくことに努力しました。人間嫌いであった自分が、できるだけ多くの人と親しむこと、自分の苦手であったダンスやコンパ、飲み会にも出かけていくようにしました。しかし、自分に不得手なことだけをおこなっていても、苦痛だけが残ります。自分が得意なこと、好きなこと、他人より優れていると思われることに集中することもしました。

 自分の努力を、彼女は認めてくれるようになりました。すると、今度は彼女が大きく変わりました。彼女のすべて、嫌な点・欠点や弱点をすべてさらけ出して、自分にぶつけてくるようになったのです。自分は戸惑いながらも、半分は喜んでいました。彼女のすべてを受け止めながら、自分の思いもぶつけました。会うたびにけんかをしました。でもすぐに仲直りをして、またけんかをするという付き合いが続きました。

 彼女との恋愛において、自分という人間は大きく変わりました。人間としての自分の半分は、恋愛において彼女によって創られた、変えられたという思いは実感としてあります。また彼女の半分は、自分が創った、自分によって変えていったという思いもあります。大学院に進学して研究者になるという選択も、彼女との出会いがなければあり得なかったと思います。

「結婚」から「就職」・「子育て」まで

 五年の交際をへて、私の大学院進学の前年に私たちは結婚しました。妻・瑞穂は、私の大学院進学を想定して、大阪で小学校の教員になっていました。私は妻の扶養家族として、妻・瑞穂と大阪で暮らし、京都の大学院に通いました。当時の京都大学大学院には、妻の扶養家族となって大学院で勉強する多くの院生がいました。彼らとの日常会話には、妻の妊娠や出産、子育てから保育所のことまで含まれていました。私自身も、大阪で暮らしている時に二人の子どもを授かりました。

 波乱に富んだ五年の恋愛をへて結婚しても、二人の性格の違いは変わりませんでした。妻・瑞穂は、小学校教師としては天性の素質を持っていたと思います。教育実習の時代から多くの子どもたちに慕われ、教師の同僚や先輩からも一目置かれる存在でした。人間としての欠点や弱点が見えないような存在でした。大学時代の友人が集まった時、その場に居なかった瑞穂について、何か欠点や弱点があるのではないかと、お互いに感じていることを出し合ったこともあります。その際にも、大きな欠点・弱点は指摘されませんでした。

 でも私と二人だけの時は、妻・瑞穂は自分の欠点や弱点を平気で出していました。私もそれを当たり前のように受け止めていました。私からみて、妻・瑞穂の最大の弱点は、他の人々にいい顔をしすぎることでした。良い子でいること、他人に嫌われない・好かれるために無理を重ねてしまうことです。その結果、自分の身近な家族に甘えて負担をかけてしまうことです。それはまた自分の身体を痛めてしまうことになる。健康を害してしまうことです。

 私が静岡大学に就職することが決まった時、妻・瑞穂は迷いながらも、大阪での小学校教師を退職して、静岡についてきてくれました。子育てをしながら臨時教員の仕事を見つけ、教師としての定職を探しました。最終的には静岡大学付属幼稚園の教師に就くことが出来ました。慣れていない幼稚園の仕事にも、瑞穂は全力で取り組みました。多忙な日々が始まりました。

 妻・瑞穂は私と付き合っている時から、母をとるか私をとるかと迫られたなら、私は迷うことなく母をとると宣言していました。母ひとりと子ひとりの関係は強固でした。私たちは、結婚当初から瑞穂の母・近藤百合子と同居し、子どもが生まれた後は、百合子にもっぱら子どもの世話をしてもらいました。母に子どもを押しつけて、妻・瑞穂は小学校教師という仕事に集中していたのです。

 静岡に移って幼稚園の教師になってからは、大阪の時代の再現となりました。仕事はどんどん忙しくなり、ついに瑞穂は幼稚園で倒れてしまいます。脳動静脈奇形による脳室内出欠でした。仕事が終わった後、同僚にバレーボールに加わるように誘われ、飛んでくるボールを見上げた瞬間に倒れたのです。

 脳動静脈奇形は、以前から瑞穂の脳内にあった病でした。しかし、それにはまったく気付いていませんでした。もともとの持病があった上に過労が引き金になったようです。労働災害の認定が出来るかどうかが職場で検討されましたが、無理であるという結論になりました。もともと体内にあった障害であり、仕事が終わった時間帯に倒れたことも労災の認定を妨げました。忙しい仕事が強要されたといっても、瑞穂が自ら引き受けていった側面もあるからです。

 出血した場所が脳の奥にあるために、手術をすれば植物人間となる可能性があると医師から言われました。手術をするかどうかが病院内で長時間議論され、結果は手術をしないことに決まりました。再発率は25%程度だと言われました。回復の度合いが思ったよりも良かったことも、手術をしない理由とされました。ただ再発の危険性はあり続けるので、仕事に復帰することは出来ないと宣告されました。再発しないように静かに暮らすように言われました。厳しいリハビリもしてはいけないとされました。

 教師という天職が続けられなくなったことは、瑞穂にとって大きな精神的な打撃でした。何を生きがいに、これから生きていけばいいのか。妻・瑞穂の苦悩は、私にもよく分かりました。子育ても母にまかせていたこともあり、自分の居場所が無いように感じたようです。病気で一日中、家のベッドにいる母親の存在は、子どもにとっても戸惑うことだったと思います。母が病気であることを理由に、子どもたちはいつも静かにしておくように言われ続けました。

 学校という職場において、仕事として子どもに接触することと、家庭で母親として子どもに接触することは、大きく異なります。学校では理想の教師として子どもに慕われていても、自分の子どもに家庭で慕われるとは限りません。実際、私の母親も結婚前に小学校教師をしており、退職して結婚した後も教え子たちに慕われていました。退職して50年以上も経つのに、当時の教え子たちが母のもとを訪れ、庭掃除などをしてくれているのをみて驚いたことがあります。何故なら、私にとって母親は決して良い母親ではなかった、自分のことは理解してくれなかったからです。

 妻・瑞穂も同じでした。教師という生きがいを無くし、障害者としてベッドの上で暮らしながら、自分の母親・自分の子どもと良好な関係を構築することは容易なことではありません。でも妻・瑞穂は必死に頑張ったと思います。子どもたちや母親も、それを理解してくれたと思います。

「障害者」となった妻の「生きがい探し」

 妻が病気で倒れたことは、私にとっても大きな打撃でした。自分の片腕がもぎ取られた感じでした。何事も妻と相談して決めていたことが、これからは自分だけで決めていかねばならない。それだけでなく妻・瑞穂の新たな生きがい、目標も見つけてやらねばならない。家庭だけでは、自分の生きがいを見いだせないだろうことはわかっていました。家庭の外に自分の居場所を見つけることで、家庭のなかでの自分の存在・役割も見つけられると思ったからです。

 教師が続けられなくなってから、妻・瑞穂は大学時代から関心のあった児童文学の世界に踏み込もうとしました。私は、それを積極的に応援しようと思い、瑞穂を図書館や本屋に連れて行き、児童文学の本を買い集めました。左半身の麻痺という障害を抱え、体力のない妻にとって、長編の児童文学は不向きであり、小さな子どもと接触できる絵本や童話の世界に関心が移っていきました。

 私は、童話や絵本を買ってきて妻に渡し、妻が書いた手書きの小さな絵本・童話を職場の人に買ってもらうことまでしていました。妻は少しずつ元気になって、左の手足も少しだけれども動くようになりました。児童文学の仲間・友人も出来て、それが妻・瑞穂の新たな生きがいになったようです。私はそれを喜んでいましたが、自分が児童文学や童話の世界に深入りすることは避けました。

 私からみて妻・瑞穂は、どちらからというと理数系の人間に思えていました。映画や音楽・文学の領域において、妻と私の感性・評価軸は明らかに異なっていました。自分が感動して涙を流している傍で、妻・瑞穂はすやすやと眠っていることも多くありました。互いに理解し合っているけれども、まったく異なった感性・価値観を持っているの、私たち夫婦です。同じ世界に踏み込むと、けんかになることは明らかでした。傍で見守る、支えるだけが、私の役割でした。

 私の性格は妻・瑞穂とはまったく違っていて、他人の目は気にしない、自分が正しいと思ったことは貫き通すというものです。周囲に理解されず、誤解され誹謗中傷を受けても、やり遂げようとします。自分の仕事・生き方にかかわる具体的な事柄を相談しても、妻に反対される、批判されることはわかっています。妻・瑞穂が元気で若かったころは、それで激しくけんかしましたが、妻が病気になり、障害者になると、そんなけんかをすることは出来ません。

 まったく異なる資質・性格を持つ二人だからこそ、それをぶつけ合って互いに成長できました。しかし、それが行き過ぎると喧嘩別れになってしまう。それがわかっているだけに、私は家庭や子どもの教育については、極力、妻にまかせる、祖母である百合子に委ねることにしました。私は自分の仕事・信念に基づいて行動する。妻・瑞穂は、それをわかってくれていたと思います。時折けんかをしながらも、私たち夫婦は互いを信頼し合っていました。

 次の大きな転機は、子どもたちが静岡を離れ、私が静岡市内だけれども山奥の過疎の山村である大間集落に生活の拠点を移すと決めた時です。1988年、大間の空き家を借りると告げた時、妻・瑞穂は反対をしませんでした。子どもが小さかった頃から、夏には井川や河口湖などにキャンプに行っていたために、その延長と思っていたようです。子どもも親元を離れていたために、妻は私とともに大間を頻繁に訪れるようになり、そこでの「むらおこし」・地域の活性化に積極的に協力してくれるようになります。

 病気の妻を連れて訪れているにもかかわらず、大間集落の人たちは温かく迎え入れてくれました。大学に出勤している昼間の間に、瑞穂は大間のお年寄り・女性たちとすっかり仲よくなっていきました。私にとって不得手なところ、手の届かないところを妻・瑞穂がカバーしてくれました。妻と一緒であることが、大間の人たちに信頼してもらえた一因であった思っています。

 大間に家を建てる時も、妻は不自由な身体でありながら、私がいない時、建築現場まで足を運び、大工さんの仕事を楽しそうに見ていたそうです。大間集落の活性化のためにつくられた、地元の農産物の販売と軽い食事ができる施設である「駿墨庵」の運営にも参加し、集落の女性たちとともにレジ打ちの仕事もこなしていました。私よりも深く集落に溶け込み、むらおこしに参加する妻の姿を見て、私は幸せな気持ちで一杯でした。

 学生時代から私たちに共通していたものは、自分のため・自分の利益のために生きるのではなく、人のため・より良い社会を創るために生きるということです。その方法・手段については異なっていましたが、二人が目指す方向は同じだったと思います。ただ方向は同じであっても、行動する場所は別でした。それが大間にきて「むらおこし」に参加することで、同じ場所で行動できるようになったのです。初めて一心同体になれたと思います。


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