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【父のつぶやき】妻・瑞穂との暮らしを振り返って(その4)

「療養型病床」の病院から「特別養護老人ホーム」へ

 四回目の出血の時、私は妻・瑞穂の「死」を覚悟しました。しかし妻は奇跡的に一命をとりとめ、意識を回復することが出来ました。脊髄から髄液を腹部で吸収させる措置が成功したのです.しかし、麻痺は進行しており、認知症という診断も追加されました。そして治療が終わったという理由で退院を迫れます。自宅に連れて帰るのは不可能であり、三回目の出血を起こしたリハビリ病院に再入院することを躊躇われました。

 色々と悩んだ挙句、リハビリ病院に隣接する富沢病院に入院することになります。この病院は老人専門病院として設立されたのですが、「老人や慢性型疾患等で長期の入院が必要な人のための療養型病床を持つ専門病院」となります。このような病院があることは知らなかったのですが、妻を入院させてくれることはここしかなかったのが現実です。

 後で聞いたのですが、妻を入院させることには病院内で反対があったそうです。くも膜下出血を四回も起こした患者を入院させるのは危険だからというものでした。ただ入院したら退院させられることはない、入患者の9割以上は病院内で亡くなっているということでした。そこで「あなたの奥さんは立派な認知症です」と告げられました。

 意識が回復して以降、妻と普通の会話も出来ていたので「認知症」という言葉には戸惑いました。でも最近の記憶が曖昧になっていたので、「認知症」になったことを受け入れざるを得ません。私は自宅で高齢の妻の母を介護していましたが、病院にも妻の母を連れて毎日のように訪れていました。妻の母を山の中の家においておくことに、妻の母が嫌がったからです。

 入院後、妻は次第に元気となっていきましたが、入院生活には様々な制約が課せられていました。トイレに連れていくことはできず、オムツをしたままであり、それが汚れても交換は定時にしかしてくれません。食事も決められた時間までに終えることが強要され、家族の了解もないまま身体拘束をされていたことも度々ありました。

 自宅に連れて帰ることも考えましたが、妻の母と二人の介護を自宅でおこなうことは無理でした。それを見かねて看護師の方が「奥さんの状態であれば、特別養護老人ホームの方がいいのではないか」と声をかけてくれました。特養は多くの待機者を抱えており、なかなか入所できないことは分かっていましたが、申し込みだけでもと思い願いを出すと、幸いなことに認められました。

 そして2011年に特別養護老人ホーム「晃の園」に入所できました。そこでは個室となり、オムツ交換も随時してくれましたし、食事の時間も妻の状態に即して配慮してもらえました。右手が使えた妻は自分で食べることが出来、トイレも希望すれば便座に座らせてもらうこともしてもらいました。それは「地獄から天国に来た」ような恵まれた環境でした。

 病院とは治療のための施設であり、医療行為が優先されます。その結果、介護がなおざりになるようです。時間内に食事をさせるために患者を怒鳴りつける光景も見かけました。妻の食事を介助していた時も、「私たちにも食事・休憩の時間が必要だから」という理由で、食事にむせているにも関わらず、早く済ませるように迫られたこともあります。

 しかし特別養護老人ホームは介護施設であり、入所している人の生活を大切にしてくれます。調べてみると特別養護老人ホームは、1963年の老人福祉法の制定で設置されたものですが、それはイギリスのナーシングホームをモデルにしたものとなります。しかし当時から看護師の不足が顕著であり、国家資格ではない「寮母・寮父」に運営が委ねられたようです。

 同じころ老人専門病院も設置され、そこでは資格を持つ看護師が看護していましたが、多くの褥瘡(床ずれ)が発生したようです。ところが資格を持たない人が担う特養には「褥瘡」は発生せず、「医療」「看護」とは異なる「介護」の独自な専門性が放火されるようになり、それが「介護福祉士」という国家資格の設置に繋がったようです。

 それは専門知識はないけれども、「寮母・寮父」の人たちが「入所している人たちが嫌がることをやらない」という視点で「生活支援」をおこなったからのようです。もちろん「介護」においても専門的知識は大切ですが、個々の高齢者の異なる身体的・精神的状態に対応することが「介護」では重要であり、「心に寄り添う」ことこそが「より良い介護」となることを教えられました。

妻の母の「死」と「認知症」との闘い

 妻が特養に入っても、私は毎日のように妻の母を連れて妻のもとを訪れていました。たった一人の娘のことを案じる妻の母にとって、山間の家に一人でいることは耐えられないことであり、妻の傍にいることで心が落ち着いたからと思います。しかし、妻の母の衰えは進行し、娘の傍にいても介護はしなくなり、「瑞穂を頼む」という言葉を繰り返すようになります。

 認知症が進む娘とまともな会話も出来なくなり、ベットで横たわる姿を見ることもつらくなったようです。自宅にいても思うように身体を動かなくなり、いろいろな問題も生じましたが、明らかに私に介護されることに恐縮し遠慮しているようでした。娘と同じ特養に入所できれば、気兼ねなく介護され安心するだろうと思い、特養に相談しましたが、要介護1の状況では無理と言われました。

 私は自宅で最期まで介護することを決意し、そのための準備も始めていましたが、特養から突然連絡があり、入所が認められたことが伝えられました。まだ正式な申込書も提出していない状態だったので驚きましたが、施設の側も私たちの状況を見ていたので、特例で入所させてくれるようになったようです。その結果、私は年金生活の一人暮らし高齢者になることになります。

 自宅で二人の介護をしていた時は、それだけに追われる毎日であり、自由な時間等はありません。しかし、一人暮らしになると一挙に自由な時間が出来てしまいました。特養には毎日訪れ、二人と面会していましたが、その中で家族として出来る「介護」と、他人に任せてよい良い「介護」の違いを考えるようになります。家族だから出来る「介護」と仕事だから出来る「介護」の違いの問題です。

 さらに昔の映画や流行歌を、妻や妻の母だけでなく特養に入所している高齢者にも楽しんでもらうことを始めました。それは地域で始めていた高齢者を対象とする「映画・音楽鑑賞会」を特養でもおこなうことでした。それは高齢者に対する「心のケア」としての「心理療法・音楽療法」の実践でもあり、身体ケアに追われる特養の職員の人たちへの家族としての支援ともなります。

 最初の頃は妻も参加していましたが、「認知症」の進行によって三回出来なくなります。しかし妻の母は喜んで参加していましたが、やがて「衰え」が進み、最初に紹介したように「看取り介護」となり、亡くなることになります。「看取り介護」となった妻の母のもとに妻を度々連れて行っていましたが、会話も出来ず寝たままの母に声をかけることも出来ない状況でした。

 そして妻の母の「死」を、どのように瑞穂に伝えるべきか・伝えないほうが良いのか悩みましたが、決心して伝えることにしました。妻は冷静に受け止めてくれたので、通夜や葬式にも妻を出席させました。知り合いの人たちとも会話をしていたのでほっとしましたが、その後、度々母親のことを尋ねる様になり、母の「死」が認識できていないことを知らされます。

 特養に入り、平穏な暮らしをしていた妻ですが、度々高熱を出すようになり、その度に日赤に入院することを繰り返していました。尿路結石や腎盂腎炎等によるもので、治療における苦痛だけでなく、入院生活による「認知症」の周辺症状の悪化に悩まされました。天井や壁が落ちてくると叫んだり、傍に知らない人がいると脅えたり、幻覚や妄想等が出てきました。

 私は病名が分かるなら治療をすべきと思い、入院を選んだのですが、それを悔やむ気持ちにもなりました。でも治療が終わり、静かに眠る妻を見ていると、この選択で良かったとも思います。退院して特養に帰った後も、妻の「認知症」は進行し、飲む薬の種類も変わったことで、症状も「回帰型」から「葛藤型」に変わっていったようです。

 「回帰型」とは昔に戻ろうとするものであり、最近のことを忘れた妻はむかしの話をすれば楽しく会話が出来ていました。しかし薬が変わると、意識が少し正常になったのか、盛んに「お父さんに迷惑をかけてごめんなさい」という言葉を口にするようになりました。そして私に対してすごい剣幕で起こるようになり、「殺してやる」と口走り、爪で引っかき頬を殴ることもありました。

 その言葉を聞き行動をされたとき、私は強いショックを受けましたが、その理由について考えてみました。三度目の入院から退院後、私は夕食の介助もしていたので、妻を車いすに乗せようとしました。すると妻は怒りはじめ、「今、お父さんのためにやってるのだから待って!」と叫びます。「もう少しで、お金になるのだから」というのです。

 妻は一点を見続け、口でぶつぶつと言っているだけです。どうやら何かの計算をしているようであり、私はかまわず車椅子の乗せようとすると「殺してやる」と叫んだのです。最初は冗談だと思い、妻の顔を覗き込むと、私が見たことがないほどの憎しみの表情で睨みつけています。私は背筋が寒くなり、戸惑いと怒りや悲しみの感情で、そこから立ち去ることしか出来ませんでした。

 冷静になって考えた時、妻は妄想であっても「家族のためにお金になること」を考え付いたようであり、それを邪魔されたことに怒っているようです。妻が私に「殺してやる」といった時に、私が感じたような気持ちに妻がなって怒ったのではないかと考えました。すると妻の怒りと私の怒りの感情は同じであり、妻が愛おしく思えるようになりました。

 「認知症」の症状の「葛藤型」とは、自分が思うようにやりたいのに出来ないことのことへの苛立ちから、周囲に迷惑をかけるような行動をとることを意味します。妻の「認知症」の症状は「回帰型」から「葛藤型」に変わったのであり、それに対応した「介護」に変わるべきだと考えたのです。そこから妻への接し方を少しずつ変えていきました。

妻の「認知症」の症状変化と「介護」のやり方での工夫

 私は妻に度々「知らない人がいる。泥棒!」と叫ばれたことがあります。車椅子を押している時も、「知らない人が私をどこかに連れて行こうとしている。お巡りさん、助けてください」と大声で叫ばれました。私の顔が認識できなくなっているのです。特に妻が寝ている時に部屋に入ると、泥棒が来たと思うようです。だから私は部屋に入れば、妻に私であることを確認させるようにしました。

 妻の記憶にある私の顔と今の年老いた私の顔が一致しないのです。だから確認すると、「本当に私のお父さんなの?」と問いただし、確認すると安心したような顔になります。また妻の手を握り、顔を見ながら話すように心がけました。手を握るとオキシトシンというホルモンが分泌され、相手に信頼感を持つ効果があるからです。

 このオキシトシンは「惚れ薬」とも言われており、「タッチケア」の効果の根拠ともされています。スウェーデンでは教育現場に導入され、それによって非行やいじめが大幅に減少したと言われ、認知症の「介護」にも有効とされているものです。それと同時に注目されているのが「セロトニン」というホルモンであり、心が落ち着く効果があるようです。これは日光を浴びることで分泌されるようで、私は妻を連れて度々日光浴するようにしました。

 それと同時に食事において、妻の好物を個人的な買ってきて食べさせるようにしました。これは妻の咀嚼する力が低下しているから訓練しますと言われたとき、食事の内容を見て食欲がわかないだろうと思っていたので始めたことです。実際、妻は好物だと驚くように食べるようになりました。私は、それにより人間を幸せにするもうひとつのホルモンである「ドーパミン」の分泌を促したと信じています。

 「認知症」について色々調べてみると、「介護」からのアプローチと「医療」からのアプローチでは見解が大きく異なるようです。アルツハイマー型認知症の場合、「介護」からのアプローチは頭を使わない等の生活習慣によって脳内の障害が生じたとしており、脳内の障害から症状が発生したとする「医学的アプローチ」との違いが鮮明となっています。その根拠のひとつが、高齢者が入院すると「認知症」の症状が発生し、それが退院すると治る事例が挙げられています。

 海外においてもアルツハイマー病を生活習慣病とする見解も増えており、それが「認知症」への「介護」の仕方に大きな影響を与えています。妻の場合、脳血管性認知症なのですが、「介護」の仕方によって「周辺症状」は改善が可能です。大切なことは「認知症」になった人の立場から考える・理解することであり、それによって「介護」のあり方を変えれば大きな効果が出てきます。

 妻の場合、私を認識できなくなって「あなたは誰?」と聞くことが多くなりました。そこで初めて出会ったように接していくと、ある日、私に「結婚しよう」と言ってくれたことがあります。私と結婚していることは忘れているが、今の私と結婚する気になったのであり、私にとって昔にふられた後、再度、好きになったと言われたことの再現であり、大きな喜びでした。

 もっとも次の日になると、妻は私の顔を見て「主人が一緒に暮らそうと言ってくれたので、私はあなたと結婚できない。だから、別な人を探して!」と言われました。私は、どう返事すればわからないまま笑うしかなかったのですが、一度でもいいから、別の人間と思われていた私と結婚しようと言ってくれたことに感謝します。妻と心が通じた証拠だからです。

 新しい認知症介護で重要なことは「心に寄り添う介護」であり、それは「家族だから・家族にしか出来ない介護」だと思います。だけど家族だから出来るとも思いません。「愛情」があること、「愛情」に基づいて「介護」出来るかどうかが大切です。しかし「愛情」だけでも良い介護は出来ません。むしろ「虐待」となる場合もあります。

 「介護」には「理性・知性」も必要であり、「認知症」について冷静に科学的に学習することが出来なければ「愛情」は憎悪に変わり「虐待」を引き起こします。「愛情」とは感情であり、その感情をコントロールできなければ「愛情」にはなりません。そして感情をコントロールするために「理性・知性」であり、それを働かせるためには対象者から一時離れる・時間を置くことが有効です。

 次の図は、新しい「認知症介護」の認識をまとめたものですが、「介護(ケア)」によって「中核症状」は治らないが、「周辺症状」は治ることを示すものです。この考えは1990年代の終わりころから提起され、次第に多くの人たちの共通認識となっているものです。次の図も「認知症」の症状を三つに類消したものであり、それに応じた「介護」をおこなえば「周辺症状」が改善することを示しています。

父ブログ図2

父ブログ行動心理症状による認知症の分類


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