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【父のつぶやき】妻が亡くなってから、その後の暮らし(1) 亡き妻と共に生きる・・・「手元供養」

 妻が亡くなり、葬儀や様々な手続きに追われていた頃まで、私は元気でした。それらが一段落した後、疲れが出て私は体調不良に陥りました。妻が亡くなって私の日常生活が変わってしまったことも大きいと思います。それまで私は朝起きると同時に家を出て、喫茶店のモーニングサービスで食事を済ませ、それから妻がいる特別養護老人ホームに行き、妻の介護をするのが日課でした。それが出来なくなったのです。


 朝、妻の顔を見れないことはさびしい限りです。妻の遺品の整理する気など、全く起きません。それを見るだけで胸が締め付けられる思いがするからです。介護をしていた妻と妻の母がいなくなり、私の家は荒れ放題でした。庭にウッドデッキを作っていたのですが、床板が朽ちて腐り、その上を歩けないほどになっていました。庭には草が生い茂り、室内もゴミ屋敷に近い状態でした。見かねた娘たちが掃除と遺品の整理をおこなってくれました。


 それで私も、自宅で自分が生活するスペースを整えるために掃除を始めました。その頃、私がおこなっていた地域福祉の活動や講座の講師・各種会議が「新型コロナ」の影響ですべて中止になっていました。私は自宅で掃除・片づけをする毎日をおくりましたが、本も読めなくなり、文章も書けなくなってしまいました。姿勢を正して机に向かうと、左の耳の奥に「ぶん・ぶん」という音がするようになり、集中できなくなったからです。


 それでも身体を横にすると、その音は聞こえなくなるので、私は一日中、寝転がり、テレビを見たり、庭から景色を眺めるだけの毎日となりました。すると物忘れがひどくなり、自分の携帯電話の番号や車の車種・ナンバーも思い出せなくなりました。これは後で知ったのですが「老人性うつ」の典型的症状だったようです。それは高齢者がかかる「うつ病」であり、意欲の低下や思考力の低下、興味や喜びの喪失などで日常生活に支障をきたす病気です。


 その症状には個人差があるようですが、原因は「退職による仕事の喪失」や「子供の独立」という「環境の変化」と、「配偶者との死別」や「老化による心身の衰え」による「心理的ストレス」に大別されるようだ。私の場合は「妻との死別」に起因しているのは確かですが、「新型コロナ」による「自粛」という「引きこもり」の生活も影響したようです。その頃、私の胸に沁み込んできたのが石原裕次郎の唄う「北の旅人」の一節です。


 この歌は石原裕次郎が亡くなった後、その追悼として発売されたものです。歌詞は昔の恋人を探して北海道を旅するというものですが、冒頭の「たどりついたら 岬のはずれ」という言葉が、人生を「旅」に例えて「旅の終わり=人生の終着点」に達したことを私に感じさせました。特に「いまでもあなたを待っている」という言葉が、私には亡くなった妻の「呼ぶ声」と聞こえ、それが「俺の背中で潮風(かぜ)」となり、私を包み込むのです。


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 この歌詞では、昔の恋人に会うことが旅の目的であり、それが「ぽつりとひとつ」の「赤い灯」となって見えています。しかし私は、妻と会うことは出来ません。「赤い灯」は消えており、妻の「呼ぶ声」は「あの世」からのものです。「赤い灯」が見えたとしても、それは私を「死」に誘うものです。しかし、それによって私の中で「死に対する恐怖」は確実に薄れていました。これから私は「どう生きるか」が分からなくなっていたのです。


 私の妻は、亡くなるまでの八年間を特別養護老人ホームで過ごしていましたが、私は毎日、そこを訪れていました。妻の部屋に入ると、妻は私の顔を見て「お父さんが来てくれた」と本当に嬉しそうな笑顔を向けてくれました。それは私にとって「喜び」であり、「生きる力」を与えてくれるものでした。「今日も妻は元気でいてくれる。」私は妻の介護をしながら、「妻より早く自分は死ねない」。「元気でいなくてはけない」と自分に言い聞かせていました。


 だが、その妻が亡くなった今、「自分は何時でも死ねる」・「生きる目的」「生きる意味」が消えたのです。そんな自分が「老人性うつ」となったのも当然のことです。しかし、現在、私は「うつ」から脱却しつつあります。妻の「呼ぶ声」が次第に小さくなってきたのです。それは妻のことを忘れたからではありません。今でも毎日、妻のことを思い出しています。ただ妻は「私の傍にいてくれる」「私を支えてくれている」と思えるようになったのです。


 現在、妻の遺骨は遺影や位牌と共に私のベッドの傍に置いています。「納骨をしない」という「手元供養」を選択したのです。毎日、妻の遺骨と遺影に妻が好きだったコーヒーとケーキを供え、手を合わせています。天気が良い日は妻の遺骨と遺影を縁側に出し、妻と共に景色を眺めています。墓を自宅に庭に作ることは法律で禁じられていますが、遺骨を自宅内に置くことは許されています。だから私は、妻の墓を移動式で室内に作ったと思っています。


 すると私は、今も「妻と共に暮らしている」気がしてきたのです。今、私は残りの人生を「どう生きるか」を、妻と共に考えるようになっています。新しい「赤い灯」を妻と共に探そうとしているのです。しかし、それは最初から決めていたことではありません。コロナ禍で家族だけの葬儀を終えた後、私は五年前に亡くなった妻の母の元に遺骨の一部を納めるつもりだったからです。


 しかし私は、納骨の予定日の数日前に発熱し、医者からPCR検査を命じられることになります。納骨の予定日は、検査の結果が出るまでの自宅での待機指示と重なってしまいました。その結果、納骨はキャンセルをせざるを得なくなったのです。そして私は、自宅で妻の遺骨とともに過ごす中で、「私は此処に居たい・お父さんの傍に居たい」という妻の声を聞くことになります。そのように聞こえたのです。


 妻は、今の自宅である山の中での一軒家が気に入っていました。家を建てる時も、毎日、不自由な足を引きずりながら、杖を突いて建築現場に通っていました。棟梁とも仲良くなり、家が出来るのを楽しそうに眺めていたそうです。認知症になってからは、ここでの暮らしの記憶も無くなっていましたが、一度だけ自宅に連れてきたときは本当に喜んでいました。妻が「ここに居たい・お父さんの傍に居たい」と思っていたことは確かです。


 娘たちから妻と妻の母との激しい喧嘩を聞いたことも、遺骨のすべてを手元に置くことの決意の一因となりました。自宅には、妻の母と祖父母を祀っている仏壇も置いていることから、妻の母も許してくれるだろうと考えたのです。また僧侶と納骨の話をしていた時、妻がどんな人間であったかを、僧侶から一度も聞かれなかったことも気になっていました。納骨の日取りと金額だけを述べて、事務的に儀式を執り行うだけのように感じたのです。


 葬儀や納骨を依頼したのは、妻の母の葬儀の寺院と同じでしたが、死者を弔う、家族の心の痛みに寄り添うという姿勢は感じられません。妻の母は浄土真宗の信徒であり、個人の墓は作らないことになっているので、共同墓地への埋葬となっています。だから無理をしてまで、妻の遺骨を共同墓地に入れることは無いように思えたのです。そして現在、私は「手元供養」を選択したことは良かったと思っています。


 ただ、いつまでも私の手元に遺骨を置くわけにはいきません。私が亡くなるまでは妻の遺骨を手元に置くことを決意していますが、私が亡くなったら、妻の遺骨共に、娘たちが選んだ場所・方法で埋葬してもらう予定にしています。本当は、今住んでいる集落の墓地に二人の墓を作るつもりでしたが、「それだけは止めてくれ」と娘たちに懇願されたからです。「娘たちが暮らすところから遠すぎて墓参りに行けない」というのが理由でした。


 私は「お墓は死んだ人のためより、残された家族のために必要だ」と考えていたので、すべて娘に委ねることにしたのです。妻と共に遺骨を納めてくれれば、墓は何処に作ってもいいと考えたのです。問題は、私が亡くなった後のことよりも、これから「私はどう生きるか」・それを「妻と共に考える」ことにあります。それは、これまで私と妻が「共に生きてきた道」の延長線上にあります。


 しかし「後期高齢者」となり心身の衰えを実感している私には、残された時間も体力もありません。これまでやってきたことを整理・縮小しなければなりません。今、「高齢期の生き方」を高齢者と共に考えており、それを次の世代に伝えたいと思っています。山の中の一軒家に一人暮らしとなっている私は「孤独死」するかもしれません。しかし私は、その時になれば「妻が見守り、導いてくれる」と信じており、孤独ではないことを確信しています。

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