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【父のつぶやき】妻・瑞穂との暮らしを振り返って(その3)

妻・瑞穂の近況と「老衰死・自然死・平穏死」

 妻・瑞穂は経鼻管で注入された栄養や白湯も吸収できなくなり、体内の水分も減少していき、「枯れた」状態になりつつあります。やせ細ってきていますが、手足の浮腫みも取れてきて、痰の絡みも減っています。それによって落ち着いてきており、時折、目をあけキョロキョロするそぶりも見せます。意識があるのかわかりませんが、苦痛は感じていないようです。

 何も食べなければ「餓死」となりますが、私が読んだ本では「老衰死」とは「餓死」であり、それが人間の「自然死」であると書かれていました。身体が水分も栄養も受け付けなくなっているのだから、無理して点滴や胃ろう・経鼻管での栄養や水分の注入は本人を苦しめるだけであり、延命の効果ももたらさないというのが最新の医学の見解となっているようです。

 そこで気になるのが、栄養や水分を摂取出来なくなることも苦痛ではないかという疑問です。この問題については、意識がない本人に聞くことが出来ないので、外側から様々な手法で捉える研究が国際的規模でおこなわれており、それによると苦痛を感じることは少ないようです。「飢餓」状態になるの人間の脳内にはドーパミンというホルモンが分泌され、幸せな気分になるという研究もあります。

 これまでは「死」を防ぐための治療・医療の研究だけがおこなわれ、人間の「自然死」「老衰死」についての研究はされて来なかったようであり、最近になってなされるようになった研究であり、それが正しいかどうかの確証はありません。しかし、今日、「死の質」についての関心が国際的に高まっており、そのランキングも発表されています。第一位はイギリスであり、日本のランクはかなり低いようですが、この改善が課題となっているようです。

 次の図は「死」に至るまでの人間の機能の変化を調べたものですが、認知症や老衰などでは緩やかに機能が低下し、それが続いた状態で「死」に至るとなっており、他の病気と比較する苦痛が少ないことの証拠とされているのです。しかし家族にとって親しい人の「死」は受け入れ難いものであり、本人に苦痛がないことを願いながら、少しでの生き続けて欲しいという気持ちの間で揺れ動いています。

 ただ「看取り介護」として、本人が好きだった音楽を音量を絞りながら流し続け、コーヒーやお茶の香りを部屋の中に漂わす、さらにメロンや桃、チョコレートやショートケーキのクリームなどを口の中で舐める程度ですが味わせる、床ずれを起こさないように体位を変えるなどの気配りをしてもらっています。またリクライニング車椅子に乗せて建物内ですが散歩も近くおこなうことにしています。これが精一杯のやれることとなっています。

父ブログ図

「地域づくり」の実践と新たな「闘病生活」の始まり

 2002年に再出血をするまでは、大間だけでなく、藁科川流域全体のあり方を考える活動に、夫婦で参加していました。しかし再出血以降は、瑞穂の行動は大きく制限されるようになりました。駿墨庵の運営に参加することはもちろん出来なくなりました。集落の人たちと会って話す機会も減りました。一日中、ベッドの上で過ごしながら、妻の楽しみは俳句を作ること、俳句を楽しみながら俳句仲間と交流することにむかいました。

 妻の介護と家事は、妻の母・百合子がおこなっていましたが、80歳代の後半になり、体力的に無理になったため、私は定年より3年早く、大学を早期退職しました。そして少し出来た時間的な余裕をつかって、過疎化と高齢化で限界集落化しつつある大間の活性化に取り組みます。退職金の一部をつかって自宅の隣に「ツリーハウス」を建てました。大間の最大の地域資源は、素晴らしい景観にあることから、それを大間にやってきた人たちの展望台・休憩所にしようと思ったからです。

 翌年からは、大間の人たちに呼びかけて「縁側お茶カフェ」を始めました。大間の全世帯・7戸が、月に二回・第一第三日曜日に縁側を開放し、そこで大間でとれたお茶を飲んでもらい、大間で採れた野菜などを食べてもらい、買ってもらうというものです。瑞穂も大変に喜んで賛成・協力してくれました。お茶カフェの日に、句会を開催するという形で協力してくれました。お茶カフェの日に、各農家をまわってお客さんと話しをすることも楽しみにしていました。

 二度目の再出血で倒れて、瑞穂は二階を自分の寝室にすることを望み、窓際にベッドを寄せて、山々や空に浮かんだ雲、夕焼け朝焼けや月・星を眺めて楽しんでいました。ツリーハウスも瑞穂が登れるように緩やかな階段をつけていたので、時折、ツリーハウスを訪れ、ソファーでくつろいでいました。しかし、そんな生活にピリオドがうたれました。2010年の一月、脳内での三回目の再出血を引き起こしたのです。

 2009年の6月、妻の母・百合子が大腸ガンで入院し、手術を受けました。幸いなことに癌は転移しておらず、手術は成功して元気になりました。その後も経過は順調で心配はありません。ところが10月に、今度は瑞穂が突然39°を超える発熱をします。首のうしろの痛さも訴えていたので、脳内出血を心配して日赤で診察してもらいましたが、出血はしていないとの検査結果でした。

 一安心したのですが、その後も発熱が続き、11月の9日に日赤へ検査入院となりました。一週間、様々な検査がなされましたが原因はわからないままでした。14日朝、高い発熱があったために背中の脊髄から髄液を採取して調べたところ、細菌がみつかり、髄膜炎であることが判明しました。すぐに抗生剤が投与され、瑞穂は意識も回復し、元気になりました。

 12月24日、日赤での髄膜炎の治療が終了したので、静岡リハビリ病院に転院しました。約一ヶ月寝たきりだったので、立つことも座ることも出来なくなっていたからです。新年をむかえ、瑞穂は順調に回復すると安心していたところ、1月19日に突然発熱し、22日に日赤で受診するよう言われました。リハビリ病院から日赤まで、私の車で瑞穂を運びました。瑞穂は、意識もはっきりしており、発熱の症状から髄膜炎の再発を私は懸念していました。

 ところが日赤での診断の結果は、脳出血というものでした。三度目の脳出血です。すぐに入院することになりましたが、瑞穂は意識もあり、出血の量もごくわずかということなので安堵していました。ただ医師からは、水頭症になる恐れがあると告げられましたが、水頭症がどのようなものであるかはっきりとわからないままでした。その後、瑞穂は発熱が続き、意識もなくなっていきました。

 1月29日、CT検査の結果、水頭症が悪化していると告げられ、緊急手術をやることが決まりました。頭に穴をあけて、水を抜き取るというものです。その際、医師から、瑞穂には脳動静脈奇形という病気であるために、脳出血の危険性があると言われました。緊急手術が始まると直ぐに医師から呼び出しがあり、「頭に穴を開けて水を抜こうとしたら、すごい勢いで出血した。四度目の出血である。危険なので、すぐに手術を中止したが、これだけの再出血では命の危険がある」と言われました。

 娘二人も駆けつけ、一晩様子を見守りましたが、幸い、症状は悪化しませんでした。医師も驚くほどでしたが、水頭症の進行が進むことは避けられず、「もう頭から水を抜くことは出来ない」と言われました。残る手段として、腰の脊髄に管を注入して水を抜く方法があるが、それは脳を下に押し下げて呼吸困難にする危険性があるので、極力、様子を見守りたいというのが、医師の判断でした。


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