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【父のつぶやき】妻・瑞穂との暮らしを振り返って(その5)

「介護」の心構えと「家族関係」を考える

 ここ数日、妻・瑞穂は眼をあけている時間が増えてきました。手足の浮腫みは無くなり、痰の絡みも減り、呼吸も安定し、顔色も良くなりました。その前は今にも命の灯が消え入るような雰囲気であったので、元気になったのは確かです。しかし頬はこけて、手足は骨と皮だけのように痩せこけています。栄養も水分も摂取できていないので当然ですが、本人は一言も発しないで、どんな気分なのかは確認できません。

 時折、喉がごろごろと鳴り、うめき声に近い声を出しますが、しゃべることはできません。目をあけてきょろきょろするのですが、何を見ているのかわかりません。足は少し動くのですが、上半身はまったく動きません。声をかけると少し反応するのですが、言葉の意味が分かっているかどうかわかりません。音楽を聴いているようであり、何か考え事をしているようでもあります。

 私は、毎日、妻のもとを訪れていますが、やることはありません。手や足をさするだけであり、妻の状態を見るだけでつらくなります。面会時間は15分とされているのですが、特例で一時間近く傍にいることが許されています。妻に何もできない自分がもどかしくもあります。それでも「知らない人が来た」と追い出されることはないので、傍に居れるだけでも幸せとも思います。

 妻と出会ってから56年、自分たちの人生を振り返ってみると、「一緒にいたい」と「一緒にはいられない」という矛盾する気持ちの間で揺れ動いてきた気がします。「一緒にいる」と「甘える」気持ちが出てきて、互いの感情をぶっつけて喧嘩になるからです。気持ちが通じたと思っても一瞬のことであり、それが持続することになりません。だから、気持ちを通じるために「離れる」・「時間を置く」ことを心がけていました。

 妻が認知症になると、心が傷つくことが多くなります。それに耐えられなくなると、自分は妻を傷つけることになるかもしれないと思うので、私は妻から離れて心を整えることにしていました。しかし、一時的であっても妻から離れることは後ろめたさが伴いますが、それは妻のためでもあると自分に言い聞かせていました。しかし自宅で介護している時は、妻から離れることが出来ず、感情を妻にぶつけることもありました。

 介護する妻との時間と距離を取れるようになったのは、妻が特養に入ってからです。妻に優しく接することが出来るようになったのは、妻が施設に入ってからであり、「家族だから出来る介護」「家族にしか出来ない介護」「心に寄り添う介護」も可能になったと思っています。しかし、ぎりぎりまで家族内で介護し、出来ないとなると施設に入れて面会にもほとんど来ない家族も多くいます。家族か施設かの二者択一になっているのです。

 しかし私は、家族だけでの介護には限界があると思っています。昔は大家族でしたから疲れたら誰かと交代することが出来ましたが、少人数の家族になると介護者の負担は過重になり、それが「虐待」になります。「無理はしない」のが介護の原則であり、そのためには自分の代わりに介護してくれる人が必要です。無理をすると「愛情」が「憎悪」に変わり、「虐待」となるのです。

 最近、昔のことを書き綴ることで娘と話す機会が増えてきました。娘から母親や祖母との関係を聞くと、あまりに私は知らなかったことに驚き反省しています。あらためて「家族と何か」を真剣に考えています。妻が「殺してやる」とすごい目つきで私を睨みつけた時、私は初めて見る妻の顔であり驚いたのですが、娘には「お母さんは、よくそんな顔をしていたよ」と言われ、私と妻の関係を見直さねばとも考えています。

 私は、これまで妻から娘や母親との関係での悩みの相談を受けたことがありません。すべてを妻に任せたつもりでいたのであり、「子育て」に関する妻と私の考えは大きく異なっていたので、私に相談する気にならなかったのかもしれません。私はゼミの学生に対しても自主性・自発性を尊重していたので、自分の子どもに対しても勉強を強制することには批判的でした。だから妻も相談する気にならなかったのでしょう。

 「子育て」の時期は、妻が病気で倒れた時期でもあり、仕事も出来なくなり、再発に脅えながら、妻は新たな生き方を模索していた時期であり、精神的にも最も不安定な状態でした。おそらく「子育て」は自分の責任であり、そこが自分の想いをぶつける場所であったのかもしれません。私も自分が「子育て」に介入すれば、妻の領分を犯すことになり、妻との関係で大きな亀裂が入ることを避けようとしていました。

 また「子育て」に関する私の考えが正しいという自信もなく、大学教員・研究者としてのあり方を模索していた時期でもあり、「子育て」に口を挟むだけの余裕も自分にはなかったと思います。その結果、母や祖母との関係で娘たちが悩んでいたことに気づかず、それを知らされたのは最近のことです。幼い頃の娘の心が傷ついていたことを考えると、後悔と反省の念で一杯です。

 しかし娘たちは立派に育っており、母親として社会人として誇れるだけの人間になってくれています。その点で妻や妻の母に感謝するのですが、私として出来ることもあったとも考えています。この子育てにおける「父親の不在」は、妻が幼少の頃に父親が亡くなり、父という存在を知らないで育ったことも起因しているようです。私もまた、子ども頃に母親が子育ての実権を握っており、父親の子育てへの介在の記憶はありません。

 ただ子どもの頃に母親が長期入院し、その間、父親が一生懸命に食事の支度や洗濯をしてくれていたことは記憶にあり、男も家事をするのは当然と考えていました。したがって妻や妻の母の介護は自分がするものと考えており、それを娘に押し付けることは一度も思ったことはありません。ただ自分が介護して得たことが多くあり、人間として成長していくためには介護という体験は絶対に必要だとも考えています。

 私は「人間は親の死を体験することで一人前になる」と考えており、親が子どもにしてやれる最後のことが「死に様」を見せることと思っています。「介護」によって家族がばらばらになる話をよく聞きますが、介護によってまとまる家族も多くあります。私も、妻の介護を家族の絆を深める契機に出来たらと願っています。

最愛の妻・瑞穂が亡くなりました。

 妻・瑞穂は2020年7月5日午後7時半、息を引き取りました。午後4時まで瑞穂の傍にいたので数時間後に亡くなったことになります。非常に穏やかの顔であり、声をかければ返事をしそうな顔をしています。医師の検死は、明日、午前9時ということなので、それまで瑞穂の傍にいてやれます。現在、妻の傍で、この文章を書いています。娘が到着するまで数時間かかるので、いたたまれない気分を落ち着かせるために書いています。

 今日の妻は会った時、息遣いが荒くなっているので心配していました。「死」が近づいていることを感じさせましたが、妻は生きるために懸命に呼吸をしていました。私は傍に座って手を握り、手をさすることしか出来ません。でも手を握ると、一瞬、妻の呼吸は軽くなったように感じました。声をかけ呼びかけをしなくても、妻は私だと分かったようです。私は、妻と出会ってからの56年を思い起こしながら、手を握りさすりながら妻と無言で会話をしました。

 入院した時も、施設に入ってからも、妻は私が来ると喜んでくれました。「良かった。お父さんが来てくれたら、私は安心だ。ずっと傍にいて」と頼むのです。しかし長く一緒にいると甘えが出て喧嘩となるのですが、それでも次に行ったとき、同じように「良かった・安心できる」と喜んでくれます。何時も、傍にはいれないけれども、何かがあれば「助けてくれる」「何時も自分のことを考え大切にしてくれる」と思っているのです。

 家族とは、そのようなものではないかと思います。喧嘩はするけれども、いざとなれば頼りになる・助けてくれると安心感が抱けるのが家族ではないでしょうか。何時か、災害ボランティアの本を読んだ時、「ボランティアの最も大切な役割は、被災者の傍にいること」「何かをすることより、傍にいることで被災者は安心する」と書いてあったことを思い出しました。「傍にいる」だけでも、被災者が「安心する」「力が出てくる」というのです。

 高齢になればなるほど、親しい人は亡くなっていくので、「孤独」になっていきます。でも高齢者の「主観的幸福感」は高齢になるほど増してきます。これは「老年的超越」と呼ばれる現象であり、宗教や民族の違いにも関わらず世界共通の現象として注目されています。高齢者の話を聞くと、口をそろえて「亡くなった人たちと何時も話をしているから寂しくない、何時も、亡くなった人たちが近くにいてくれて助けてくれる」と言うそうです。

 私も、妻が亡くなった後も、私の傍にいてくれる気がします。今度は喧嘩をしないで、何時までも話し続けることが出来ると思います。今、ここで妻・瑞穂のことを思うと、いつも周囲の人たちに気を使い、やさしく接する人でした。明るい性格で、見知らぬ人にも平気で声をかけ、すぐに友だちになり、他人から嫌われることない性格でした。子どもが大好きで、子どもの前にでると満面の笑顔で接していました。

 まさに小学校の教師が、瑞穂にとって天職のようでした。しかし他人に気をつかう一方で、身内・家族に対しては甘えて、感情を逆撫でするようなことを言ったり、負担をかける面も持っていました。しかし私は、そんな瑞穂が大好きでした。出会った時から、その感情は変わっていません。病気になって、天職である教師を続けられなくなって、気難しい面もでてきましたが、基本的に瑞穂は私が出会った時の瑞穂のままでした。

 瑞穂の笑顔を見ることが、私にとって大きな安らぎであり、幸せな気分になれたのです。私の都合で大きな買い物をする時も、「これなら瑞穂も喜んでくれる、瑞穂にも役立つ筈だ」と言い聞かせていました。病気になり、障害を持つようになり、教師を続けられないことで、瑞穂は生きる目標を失ったようでした。それでも瑞穂は、気を取り直して児童文学や童話、俳句の世界で自分の生きる目標を見つけようとしてきました。

 その瑞穂が、一番気にしていたことが、病気になって家族に迷惑をかけ、負担だけかけているのではないかということでした。自分のやりたいことをやっていても、家族のお荷物になっているだけでは生きている意味がない。不自由な身体のままで自分が生きているのは、家族にとって自分が必要であるという思いでした。家族に甘えて負担をかける反面で、瑞穂は人一倍、家族に気をつかっていたのです。

 しかし、最近になって私が知ったことは、私や瑞穂の母が瑞穂の病気を気にするが故に、娘たちの大きな精神的負担を強いていたことです。「お母さんは病気だから」という理由で我慢を強要していたようです。そのことは私は気づきませんでした。子どもが最も多感な時に、妻は病気で仕事が出来なくなり、再発を恐れて妻に気を使うことで、娘の心に傷を残してしまったようです。

 しかし瑞穂が娘たちを愛していた、妻なりの愛情を注いでいたことは確かです。妻は、自分という存在が、私や子どもたち、母に必要だと思ってもらうために頑張っていたのだと思います。必要にされなければ、早く死んだほうが良い。それが瑞穂の口癖でした。しかし、その頑張りが娘への過度な拘束となったようです。しかし、娘たちは立派に育ってくれました。妻・瑞穂の母親としてふるまいも、今では許してくれるようになっています。

 人間であれば、誰もが欠点を持っており、欠点を抱えたもの同士が時に傷つけ合いながら「助け合う・支え合う」ことで生きていくものと思います。妻・瑞穂は、私に気を使いすぎて、娘に甘えてしまったのかもしれません。妻・瑞穂は、自分がやりたいことをやってきた人間ではありません。他人に気を使い、誰かに役立つことを願ったが上に、身内には甘えが出たのかもしれません。それを含めて、私は今でも瑞穂を愛しています。

 瑞穂の安らかな「死顔」を見ていて、私は妻・瑞穂にあらためて感謝したいと思っています。私の勝手な思いつきから、大間という過疎の集落に妻を連れてきて、むらおこしにも参加してもらいました。しかし瑞穂にとって、それは家族以外に自分が役立つことが出来る仕事を見つけたという意味も持ったと思います。大間という過疎の集落を元気にするために頑張ることで、瑞穂は大間から生きる力をもらった、元気にしてもらったのだと思います。

 瑞穂が頑張って生きている姿は、私や子どもたち、瑞穂の母に対して、元気を与えてくれるものでした。しかし動かない左の手足をさすりながら嘆く瑞穂の姿を見て、これ以上、家族のために頑張って生きろというのは、残酷のような気もしていました。くも膜下出血で倒れて43年、四度目の出血で麻痺が進行し、認知症となって特養での生活が9年に及びました。五度目の出血から3カ月頑張りました。

 何度のもの生命の危機を乗り越え、身体が動かなくなり、認知症となっても、10年も生きてきたのです。そろそろ、瑞穂をゆっくりと休ませてやってやりたいと思います。こんなに頑張ったのだから、少しぐらいの甘えや欠点があっても許されると思います。再出血を繰り返し、麻痺が進行していく状況を目の当たりにすると、もう頑張らなくてもいいと瑞穂に伝えたいのです。そして、その通り妻・瑞穂は安らか移域を引き取ることが出来ました。

 瑞穂は「千の風になって」という歌が好きでした。「私が死んでも、お墓にはいません。千の風になって、自由に飛び回っている。」自分も同じように、自由に大空を駆け回りたい。そう夢見たのではないかと思います。もう瑞穂は、家族のために、みんなのために十分に頑張って生きてくれたと思います。私も、娘たちも、瑞穂を自由にさせてやって、自分の力で自由に生きていくべきなのではないかと思います。

 新型コロナウイルスの感染予防からも、妻・瑞穂の葬儀は家族だけでおこないたいと思っています。したがって参列、香典、弔電、供花についてはご遠慮いただくことにします。ただコロナの騒動が収まった時点で、皆さんとお別れをする機会が設けられたらとも思っています。なお妻・瑞穂の遺骨は母・近藤百合子と同じ墓地に埋葬し、半分は私の手元において供養しようと思っています。私が亡くなった時、私の遺骨とともに墓に入れてもらうつもりです。


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