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高橋記-②裏切りの理由

※当記事は、note/memoを前提に作成しています

前記事「https://note.mu/hudehisa/n/n6d3c5eb48c11
にて「高橋鑑種」の処罰について記済

今回は「高橋鑑種の裏切りの理由」について。
彼なくして「戦国高橋氏」は語れないので、しばらくの間は彼関連の内容が続く

もくじ↓
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①はじめに
②各関係
③裏切りの理由
④高橋家がゆえに‥
⑤おわりに
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①はじめに
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「高橋鑑種」といえば、北部九州乱の首謀者として「大友氏」に悪名高い人物である。

戦国史上で悪名高い人物として「斎藤道三・陶晴賢・明智光秀・松永久秀‥」があげられる。彼らは鑑種と同じく主家に謀反をおこなった人物だ。各それぞれ反旗した理由は異なるが、行為は類似している。

しかし明らかに異なるのは、謀反に成功しなかったことだ。唯一類似する箇所として※一部謀反の本意が詳細不明なことがある


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②各関係
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謀反理由に触れる前に、主家・関係国らについてまとめる。

--大友氏
鑑種の出身家であり、同紋衆(※)出身である。
①で述べた様に「大友氏」からしたら悪としか言いえない人物だ。
しかし、生涯人生の半分は大友氏に忠節に従っていて、戦においては一番手柄をあげるなど能力は秀でていた。(「秋月文種・筑紫惟門の反乱(※)」「小原鑑元の乱(※)」「筑前反乱の鎮圧(※)」「土居氏との戦い(※)」‥)

そして、若い年齢でありながら大宰府に最も近い「岩屋・宝満山城(※)」の2城を任されるとうになる。

そんな事から、非常に信頼をされていたことは理解できる。
なので、彼の謀反が明るみになるまで主君「宗麟」は決して信じなかったという(※慎重に謀反の証拠を検証したらしい‥)(※)

--毛利家・大内氏
彼の歴史で大友氏についで、かかせないのが「毛利氏」である。

冒頭の際「陶晴賢」は「大内義隆」の家臣であり下克上をした、実は鑑種は晴賢と関係ある人物でもある。それは、鑑種が若き頃に「大友晴英(大内義長)」の奉行人として共に山口に渡ったからだ。(※大友晴英の大内家入//後程)
※大内家との関係は省く
時に、毛利氏は「厳島の戦い」で陶を討ち、新制大内氏(※)(義隆後の政権)は衰退する。
その際「義長」は自害に追い込まれて命を落とすのだが、鑑種は豊後へ使者に渡っていたので奇跡的に生還をした。
大内氏と毛利氏の攻防にて、多くの家臣は亡くなっていることから、私の知るかぎり鑑種の生還は唯一の存在だったと思う

--筑前国衆「秋月・原田・筑紫‥」
彼らとは、大内家時代から非常に繋がり深い。
筑紫家は惟門とはきっても切れない仲である。秋月とは当時主君の「種実」と「義親子の契(※)」を反乱後にかわしている。
原田に関しては、私が知る限り親しい間柄とは言い難い。それは、原田氏と大内氏が対立関係に合ったこと(※新生大内家時代/義隆時代はそうでもない)。大内氏在職だった鑑種に対し、批判的な面をもっていたと推測もできる(詳細調査中)

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③裏切りの理由
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さて、裏切りの理由について。
多くは「謀反せざる得なかた悲劇の武将」「大名をのんだ野心武将」の2つについる

-「謀反せざる得なかた悲劇の武将」-
鑑種の謀反のきっかけは「宗麟の兄嫁強奪(※)」と「弟の死」の説である。
鑑種には2人の兄弟がいた。兄「一万田親実」弟「宗像鑑久(※)」だ。
(※鑑種は次男)

主君「宗麟」好色家で有名あり、兄の妻は九州1の美人であったとされる。
そんな妻を無理やり手に入れ、後に兄を無実の罪で殺した事件だ。
また、弟と兄が宗麟に謀反の企みを起こしたことで殺害される説もある
(※弟との反乱について資料に多々、違いあり。調査中)

これに激怒した鑑種は、謀反を起こす
しかし、結構矛盾が多い説である(後ほど)

-「大名をのんだ野心武将」-
鑑種は大友氏族「一万田家」から名門「高橋家」に養子としていった。
時期については不明・資料にバラつきがある。

養子入り後は、大内氏へ奉行入りし中国地方で筑前・筑後に関する任務をされていた。(※資料により確実に大内入したかは不明)
(※少々省きます↑↓)
大内家崩壊後は、大友氏に復帰し、「筑前・筑後の反乱・小原鑑元の乱」等で秀でて活躍をし「岩屋・宝満山城(太宰府)」へ就任する。
太宰府就任の際には「満宮の修繕・対立派閥の仲介‥」らを行い、太宰府周辺者との交友と武功を高める。

さてここで疑問がある。それは鑑種が岩屋・宝満山へ就任されたのか
彼の武功を考えると、与えられるにふさわしいと思うのだが、それ以外にも調査していくと、理由は推測できる。
理由について「大内入り時代」と「筑前・筑後支配」が深く関係する。
大内家時代に、鑑種は同奉行人「橋爪氏(※)」と共に、筑前・筑後支配管理をしていた。

そして
当時、筑前筑後は毛利氏が一部支配しており、大友氏は不服ではあるが毛利氏と対立を考慮して表立った対立はしていなかった。
しかし、毛利氏は「秋月・筑紫」らを自国で教育(※)・大友氏を嫌う人物らに根回しをしていた。なので、反大友氏活動は常にあったのだ。
そんな活動の鎮圧を目的にあったのが「岩屋・宝満山城就任」である。
「大内氏の経験」により毛利氏、筑前・筑後の国衆の知識、これが就任の理由だとも推測できる。

就任により、宗麟への信頼と得て、権力は壮大なものだっただろう。
特に「大友氏の記録書」「大鳥居氏・小鳥居氏の派閥」に関する資料には、鑑種の権力を著しく残されている(※)。

さらに、鑑種の能力を知る毛利氏から謀反の誘いは幾度とあったようだ。しかし、誘いに乗るのに一筋縄でななかったらしい。(※隆元と家臣の記録)

では「兄嫁強奪(※)」の矛盾点について
現在では「江戸時代の創作(※)」とも言われいる。その理由は

●「一万親実(兄)」の息子(一万田鑑実)が鑑種と組み謀反に及んでいないこと。
●強奪予測時の宗麟の年齢
●鑑種謀反の時期

もし、妻強奪によるものならば息子も協力するのではないか?と思うからだ。その息子(鑑実)は一生を大友氏に尽くし亡くなった。(謀反人とは程遠い人物である)
‥妻強奪以前「二段崩れ」の後は「菊池氏等」非常に揉め事が多い、親実殺害・処刑についても単なる無実ではなく本当に謀反疑惑はあったのかもしれない。

そして、親実処刑の時期の推測として宗麟は20代である確率が高い。
当時、加伴衆であった親実夫妻の年齢を考えると少し宗麟とは年齢差があるのではないかと思う。

謀反の時期については、前々から考えていたならば推測は可能であり、事件を知るタイミングは予想ができないので、これは根拠が非常に浅いと思う。

以上が妻強奪が謀反の理由の推測だ。


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④高橋家がゆえに(番外)
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上の2つがよく挙げられる推測ですが、私は「高橋家ゆえに」と考えている。(注>※自論注意)

高橋氏は大蔵氏からなる一族であり、誇り強い一族である「高橋長種」以後は「紹運・増統‥」「鑑種」をはじめ血統なしの当主がついでいる(※元種/冬種は一部除く)

一万田氏より高橋に渡った事は、歴代高橋氏家臣からしたら異例なことであった。
「長種」については別途に記載するが、一部資料によると、当時の高橋氏の支配下では疫病(※)などが流行っていたらしく、できるだけ早く長種に変わる当主が欲しかったらしい。そこで家臣らはできるだけ早く当主を迎えることを願い、大友氏から養子を選抜された。これが鑑種である。(※選抜は「義鑑・宗麟」かは不明/資料により異なる。「鑑」の名なので「義鑑説」一般的とされる。)

以後、家臣は鑑種に従い「大友氏反乱・反乱衆の鎮圧」をはじめ参戦している。

しかし、血統のない鑑種を好まない家臣らもいただだろう。
なので反乱失敗後、歴代家臣と鑑種は些細な問題で揉めて「家臣殺害」事件を起こし高橋家の主従は崩壊した。
結果、家臣らは鑑種を見捨てて紹運の元へわたる、鑑種の元に残ったのは一万田氏より連れてきた家臣が多かった記されている。

なので「大友氏への反乱」は、宗麟・大友氏への怨恨も多少あったかもしれないが、それよりも血統のない自信の力を正当化させるために、行った事件だったのかもしれない。

そして鑑種の置文について↓

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「豊筑之諸家袒左寧袒右寧模稜之靡端(身/耳)大将??旗者則帰掌?四老安劉減?老??‥抄?末??希?」
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??だらけで分かりにくいが、簡単説明すると「高橋家家臣(4老)に向けた、高橋家への心配」が記されている。

高橋家のことを大事に思っていたようだ。
(鑑種の置文は500年前のものが現在も残されている、いつか現物で見たい)

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④おわりに
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鑑種の裏切りについて、マイナー武将ではあるが‥幾多の歴史学者が研究されている。そして、「宗麟の強奪・野望説」と多くの説が言われているが、正直‥不明である。なので謀反された宗麟は「何で謀反したの?」と疑問だらけだったに違いない‥。本心は彼のみぞ知る世界‥。


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筆者

-鑑筆久-<kagami-hudehisa>
中学生時に日本・世界史が好きなり御縁で10年とちょっと‥「大友氏/筑前・後国衆/九州戦国史」を趣味程度に調べています。(今は岩屋・宝満山城戦にお熱)
現在は事情で九州外に出ていますが、将来は生まれ故郷の島に戻っていろいろ遺跡を巡ったり・資料を読みふけりたい野望を燃やしています。

人物名や誤字が多々あるかもしれません、その際はtwitter等お伝えください。
URL→https://twitter.com/KAGAMI_HUDEHISA
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