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夫婦という人間関係の究極、覗きこまなくてもよかったかもしれない"自分の闇" 映画 『マリッジ・ストーリー』感想

「人間が描けている」「人間が描けていない」
これらの言葉は小説や映画などの創作作品における評価軸の一種としてよく使われている表現だ。しかし人間が出てくるお話ならば、人間が描けていないわけがない。観たり読んだりする側の人間観や作品観が肯定できる人間像や人間群像が描かれていれば「人間が(よく)描けている」となるし、そうでなければ逆の評価となるのだろう。ステレオタイプな人間の描かれ方をした「感動作」を好む人もいれば、そうしたものを嫌悪する人もいる。しかし「人間が描けている」とは果たしてどういうことなのか。答えはない。​

このNetflix制作の『マリッジ・ストーリー』は、「僕の基準」で言えば、おそろしいほど「人間が描けている」。それは、人間というものは関係する相手によって一貫した自分(※ココでは"自分"とは何かということまでは触れない)ではいられないということが、気分が悪くなるほどに綿密に描かれているからで、対人関係というものは本質的に恐ろしいモノなのだ、ということに気づかせてくれるからだ。

この話は簡単にいえば夫婦の破局の話で、婚姻関係にある相手と関係がこじれると悲惨なことになる、というアタリマエのこと(笑)が淡々と描写されていく。男女関係なんてヤワなものだし、相手のどこかが決定的にイヤになってしまったら別れてしまえばいい。ケッコンしていないカップルならば、この作品で描かれているような境地の"地獄"を見ることはない。子供のように物質的に分割保有できない存在があったりすれば、カジュアルには別れられない。だからこのような離婚裁判ってこんなにメンドいんだぞ、みたいな映画が作られるのだし、実際にこのような地獄はいたるところにあるからこそ、世の「うまくいかない何か」を抱えて別れられない、あるいはそれらと決別した既婚者たちから共感を得られるのだろう。

この映画は(夫婦カウンセリングの一環で)パートナーの良いところを箇条書きのようにしてお互いを褒めあうモノローグから始まり、またその褒め言葉がラストに希望のようなものとして繋がっている。
どんな夫婦だって、その多くは最初は「相手のこんなところが好き」という中学生でも持てるような感情の発火から恋愛関係を始めるが、やがて生じて目の当たりにしていくさまざまな「違い」や時間の経過によってそうした気持ちは多かれ少なかれ喪われていく。人から良いところが喪われるわけではなく、それを見出す夫婦の主体それぞれが、自分をうつす鏡を自分の爪で傷をつけるようにして、曇らせあっていくのである。至近距離で暮らすからこそ許容できない相手の人格や振る舞い、慣習というものがじわじわと積み上がり続けていき、最大の共通の関心である「愛する我が子」ですらそれを押しとどめることができなくなり、離婚という選択肢が出てくるケースは多いだろう。その"大好きな"子供の養育権をめぐって決定的に崩壊させられる。

本作の傑作ポイントは夫婦を演じるスカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライバーの迫真の演技、本当にモノ凄まじい演技力と脚本なのだけれど、その中でも特に優れたシーンを挙げるならば、夫婦喧嘩の、感情的な罵りあいだろう。親権を争うためにそれぞれが立てた敏腕弁護士によって、自分たちの自覚や想定以上に、えげつないほど相手の落ち度、欠点、ミスが暴かれていく。その、離婚問題に強い弁護士の手管に戸惑いをおぼえる夫婦二人が「アレはやりすぎだ」と「落ち着いて対話しよう」とするのだが、しだいに弁護士の挙げつらった点やこれまでの不満がムクムクと頭をもたげ、やがては「相手の人格の全否定」「相手の存在の否定」とすら言ってもいいような、壮絶な罵倒の応酬へ発展してしまう。というか、ほんとうは、そうなる萌芽は、ずっと前に芽生えていたのだ。相手を否定しきらないと踏みとどまれない、感情の悲惨なありかたというものはあるのだ。いったい夫婦関係以外の人と人が、こんなに相手を痛罵することなんてあるだろうか。それほどまでに、許容できない何かを持った他人と一緒に暮らすというのは難しいということなんだと思う。言ってはならない一言を口にしたら、僕だってこの旦那と同じように自己嫌悪でうずくまってしまうだろう。
また、幼い子供は被害者でしかなく、離れて暮らすようになった親に振り回されて不憫でならないのだが、双方の親に確かな愛情を持たれているからこそ綱引きの真ん中のリボンになってしまう。この子供の無邪気な(残酷さを自己認識していない残酷な)本心の発露が、見ていて胸が苦しかった。
一人息子がパパとママのもとを行き来させられるのだが、息子はママと離れるのを嫌がってダダをこねる。それで悲しくなり、イライラしたパパが「いいから、さっさとその糞チャイルドシートに乗りやがれ!!」と叫んでしまう。そんなこと、言いたいはずはないのに。

まあハッピーエンドなんてありえないわけなんだけど、どんなに決定的な決別であったとしても、かつてその人を大切に思ったこと、一緒に暮らした時間の記憶が完全に消えるわけではない。わかりあったつもりでもわかりあえていなかった、ということを知り、わかりあえていなかったことを受けいれて、前に進むしかない。エンディングの描写は、その救いをなんとか捻じ込んだようなものだろう。マリッジは「物語」なんかではない。日常が続くだけだ。いやー、既婚者で子供も大きくなっているボクが言うのもナンですが、ホント、ケッコンなんて、しなくてもいいのではないでしょうか()

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