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心の底から誰かに「言いたい」ことなんか、ないのだ。

僕は自分という人間に興味がない、

と以前書きましたが、コレはこの先も変わらないだろうと思う。
過去の無数の人間たちの大半と同じようにほとんど何も残すこともなく死んでいくだろうし、この人生で「死ぬより辛い」ような凄まじい精神的なダメージを経験せずに今生をまっとうできたら、それでいい。

さいきんは二人の子供にもそのようなことをたまに言っている。お父さんは現時点でほぼ満たされているから、あと数年で死んでも構わないって思っている、と。もう数年ばかり我が子の成長を見られたら、(少なくとも自分視点では)そんなに悔いが無い。子供は世界の何よりも大切な宝だが、もう自分が伝えられることはほとんど伝えた、と自分では思っている。それくらい、濃い関係を築けてきた。

若いころは限られた時間のなかで森羅万象についてどれだけ深く広く識ることが出来るのか、またそれをどんな形でもいいから言語化して自分を高めたり深めたりして、偉大で膨大な人類の思考の地層、その積み重ねの片隅に連なりたいという欲求があった。そうした欲求じたいはピュアなものだし、今でも肯定している。しかし、もう自分はいいのだ。教養や叡智を掘りさげるというようなアプローチでなくても、たとえば「音楽を心から感じる」とか「親しい仲間と新鮮な魚を味わう」というカタチでも、「世界」の深さを識り、価値観を別次元へ導くようなことはデキる。知の営みと俗の快楽にさしたる差などない。

何かをあきらめた、という感覚さえない。

命リレーのNEXT走者である子供にとりあえずは(悪くないカタチで)バトンを渡せて、彼らの人生がこれからどうなろうとそれは走者である彼らがなんとかするしかない。そういうモンだ。いま、思春期の子供と話しているこの時間に、自分の人生の過去と未来の全てが詰まっている。この瞬間が悠久のなかにある。円は閉じかけている。他に何を望むことがあろうか。
まあ、それでも本は読むし、知識はつけたいし、娯楽にもたくさん触れていくであろう。そこによって開かれる視点もあろう。それは幸福なことだと思う。でも、心の底から誰かに「言いたい」ことなんか、ホントに、ないのだ。我が子らへ、オマエたちのことが大好きだ、ということ以外に。

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