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オッサンとなったサブカル糞野郎[雑記]

「歳をとってくると、音楽や映画や本など新しいモノを取り込むのが苦痛になってきて、自分の好きな時代の作品ばかりを繰り返し観るようになる」という趣旨のツイートを見て、「それは自分もそうかもなぁ」と思って、すぐに、必ずしもそうではないナと思い直した。ここ最近は、音楽と映像娯楽(おもに映画、海外ドラマ)とマンガについては、あたらしい作品を相当な数を聴いたり観たり読んだりしている。そこでちょっと考えてみると、最近、そうした娯楽コンテンツをモリモリ取り込んでいるのは、Spotifyという音楽アプリ、AmazonプライムビデオやNetflixなどの映像ストーリミング配信サービス、Kindleなどの非常に優れたネットサービスに「引き込まれるようにして」観賞している、ということに気づいた。(加えてDAZNに加入しており、スポーツも観ている)

「たくさん読書して、音楽を聴いて、映画を観る」ということでも、10代後半からの10年間ほどの「若いころ」とは、根本的に違う姿勢で作品に触れている。「文学&サブカルド熱血クソ野郎」として、感性がやわらかく、貪欲で、クジラが大口をあけて魚を一気に飲み込むようにして多くの作品を血肉にしていた時代のような「強い能動性」は、今はまったくと言っていいほどない。とにかくできるだけたくさんの本/映画/音楽を観たり聴いたりしないといけないんだ、という強迫観念のようなものは、30歳になる前なくなった。
(哲学思想に興味がなくなったことと関係しているが、それはまた別の機会に・・)
(あと、文学も、最近のほとんどの作品については、全然おもしろいと思わなくなってしまった・・)
そして、振り返ってみると、子供が生まれたこことか必死こいて仕事をしていたことと関係しているのかはわからないけれど、30代の大半の時間、それらの娯楽コンテンツから遠ざかっていた。

イキり熱血クソ青年時代に、小説や漫画、映画、音楽のたくさんの作品に触れ、自分なりの'審美眼'、つまりどういった作品が好きでどういった作品が苦手か、という価値基準を築きあげてきた。そして弾力のある若い感性は、当たり前のことだが、喪われた。そうしたジャンルの作品からある程度離れていたのだけれど、数年前にケーブルテレビに加入し、映画チャンネルを観るようになって、ふただひ扉が開かれた。レンタルビデオと違い、配信コンテンツは常に自分の好みのものではない。かつての自分の審美眼なら無視したような映画もたくさん観るようになった。若いころより、より自由に映画を「楽しめる」ようになった。

若いころの特別な時間の感性が血肉にした映画や文学や音楽の価値は色あせない。夜道を照らす月光のように、それらは自分の中にある。そのような、魂が燃え上がるような作品との出会い方は、歳をとってしまったら、もう無いかもしれないとすら思う。しかし最近の、映像配信サービスのドラマコンテンツの凄まじいレベルの高さや、音楽アプリの絶え間ないリコメンド機能などで、まだまだ自分の好奇心は尽きていないというか、あたらしいものを取り込む余地が十分にあると感じる。そこに「全部観尽くすんだ!」といった気負いはない。「美しい映画とはこういうものでなければならないんだ」とか「音楽とは熱狂と陶酔でなければいけないんだ」みたいな'青さ'がなくなって、気楽に「へえ、面白いなあ」「いまの若いミュージシャンとか漫画家って、才能ある子多いなあ」と思いながら、それらを楽しめている。と、書いてきて今思ったけれど、要するに、めんどくさい、こじらせたサブカル糞野郎が、一周してフツーになった、アクがとれた、ってだけの話な気がしてきた(笑)

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