空も飛べるはず [創作]

彼の妻は彼が死んでから4年後に再婚し、再婚相手との間にも子を一人作ってそのパートナーと添い遂げるのだが、その朝の時点ではもちろん彼はそんなことを知る由もなかったし、マンションの部屋の玄関を出る前にリビングで朝食の片づけをしている妻へ向かって、「今日はちょっと遅くなるかもしれない。いや、わからないな。帰る前に連絡は入れるよ」と言った。妻は上だけ寝間着、下だけユルっとしたジーンズに着替えていて、「ごはんは?」と訊いてきたので、彼は「ウチで食べます。お願いします」と言った。彼女は、彼の人間性にたいして嫌いなところはほとんどなかった。玄関へ向かう後ろ姿を見て、あのスーツ、そろそろクリーニングだな、と思った。生まれて1年になる娘はまだ眠っていた。風邪を引いて昨日から熱を出していた。彼は玄関を出てすぐ、娘の顔を見るのを忘れた、と思った。

彼は家を出て最寄りのバス停留所へ歩いた。彼のマンションは首都圏に近い大きな都市の郊外にあって、坂の多い町だった。バスに乗って坂を下りはじめたとき、以前よく帰宅のバスで顔を見かけた、近所の、自分と同年齢くらいの男性が犬の散歩をしているのを見た。犬はコーギーだった。そういえば最近、その男性を帰宅のバスでまったく見なくなったと気づいた。しかしそのことについて考える前に、彼はスマートフォンを取り出して昨日妻が送ってきた娘の写真を10秒ほど、拡大したりして見た。それから新聞のWEBサイトで気になった見出しの記事をサッと読んだ。天気予報は午後から雨、となっていた。週末は妻と娘と市内でもっとも大きな水族館に行くことになっていた。土曜の予報は晴れとなっていた。スマートフォンを背広の胸ポケットにしまい、バスの外の風景を眺めた。少し重い色の雲が動いていた。

彼女は彼が家を出て行ってから、食器を拭いて食器棚へ片づけ、娘の眠っている部屋を覗いた。まだ眠っていた。寝息が聞こえた。完了の音が鳴った洗濯機から洗濯モノを取り出し、ベランダの物干し竿へ干した。干している間、ベランダの入り口の内側のカーペットに置いたスマートフォンでテレビのワイドショーを流し、それを聴いていた。●●県で、小さい揺れの地震が続いている、と警戒を呼び掛けるコメントをアナウンサーが喋り、地震の専門家が解説をしていた。そのあと不倫で離婚したテレビタレントのニュースに移った。干し終えると、スマートフォンのテレビを消し、娘が寝ている部屋に行った。娘は起きていたので驚いて、「わっ、アヤちゃん、おはよう、大丈夫?」と言って娘の額に手を当てた。熱はだいぶ下がっているようだった。娘は「あーぷ」と言った。彼女も娘の真似をして「あーぷ」と言って、胸に抱き抱えた。お腹しゅいた?と娘に語りかけ、窓の外を見た。重い雲が広がってきいていたので、アレ、雨降るのかな?と思った。土曜日の天気はどうなのかな、とも思った。

彼はバス停をおりると、左手でカバンを持って、駅の改札へ向かうエスカレーターを登った。腕時計を見たら9時2分だった。午後1時からのミーティングのことが少し頭をよぎった。改札階に着いた瞬間、異様な気配を肌で、というか五感で感じた。改札のほうを見ると人が倒れていて、続いて人がどよめくような音と空気、そして悲鳴が聞こえた。倒れた人を見た直後、人と人が衝突しているのが見え、そこでまた、その2人とは別の男性のカン高い悲鳴が聞こえて、彼は呆然と立ち尽くす人と衝突している人に背を向けて転げるように走りだす数人を見た。彼は最初に見た、倒れている人へ走り寄ろうとした瞬間、衝突していた2人の一方の男が刃物を持ってこちらへ足早に近寄ってくるのが見えた、事態を察知しつつあったが、混乱して彼は動きをとめた、男の持っている刃物には血がついていた、刃物は真新しいような包丁だった、男の顔を見ると20歳くらいに見えた、改札階に着いて数秒のできごとだった、男が包丁を自分の首のあたりをめがけて、身を投げ出して突くように向けてきた、彼は身をすくめて、カバンを落として両手で顔と首のあたりを防ぐ姿勢をとったが、刃物が首に突き刺さるのを感じた、男と目が合ったが、無表情だった、自分の血がビタビタビタビタ、と足元に落ちるのを見た瞬間身体から力が抜けて、彼は膝をついて四つん這いになり、そして横向きに倒れた。スマートフォンが胸ポケットから落ちた。血が流れ出ているのが自分でわかって、猛烈な寒気を感じた。首に手をあてようと思ったが、思うように腕が動かなかった。つい先ほどの、上だけ寝間着、下だけジーンズという格好の妻の姿が頭によぎり、そして、彼は「アヤちゃん」と言おうとしたが、言えなかった。

彼女は天気予報を確認して、洗濯モノを浴室へ移動し、浴室を乾燥モードにした。ダイニングにある音楽プレイヤーでFMラジオをつけた。娘をおんぶ紐で背負い、離乳食を作りはじめた。短いパスタをゆでてから、さらに細かく切った。そしてキャベツを小さく刻み、コップ1杯ほどの水でじゅうぶん柔らかくなるまで煮た。ラジオでは声のきれいな女性DJが「春といえば○○」というテーマに対して寄せられた読者のコメントを読み上げていた。彼女はふいに、中学生の卒業式で両親と一緒に写った写真を思い出した。キャベツをお湯ごと器に移し、牛乳を大さじ2杯ていど、ノンオイルのツナと、最初に煮たパスタをそこに入れた。最後に少しだけ片栗粉を加えて、よく和えた。ラジオはお題コーナーで採用された読者のリクエスト曲を流した。スピッツの歌で、何という曲か忘れていたが、途中で『空も飛べるはず』だと気づいた。リビングへ移動して、作った離乳食をフー、フーと息で冷ましながら、娘の口へ運んだ。娘は食欲があるようで、彼女は「お熱さがってよかったねえ。おいしい?」と娘に言った。娘は真剣な顔で食べていた。

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