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それでも「いってらっしゃい」を言いづけること ――新海誠 『すずめの戸締まり』 のわかりやすい解説とエモい感想 【ネタバレ注意!】

新海誠監督の最新作 『すずめの戸締まり』の感想を書きます。僕はこの作品、とても感動しました。
ネタバレしまくるので、未見のかたはご注意ください。
本作はまちがいなく大ヒットするだろうけれど、批判も評論も確実にたくさん出てくるだろう。
僕は自分がおもしろいと思った作品について話したいので、後半部分でそれをアツく語ろうと思います。ちょっと長めになりそうです。

ちなみに、この作品の構造はシンプルでわかりやすいので、誰が見ても物語自体の解釈には大きな差はないように思います。感想には相当なバラツキが出てくるでしょう。

1. 物語を超簡単に説明

宮崎県の海の近くの小さな町で叔母とふたりで暮らす女子高校生の鈴芽 (以下、すずめ) が、通学途中に「廃墟にある扉を探している」謎のイケメン長髪男性・草太と出会う。

草太は大学生だが代々「閉じ師」という稼業をしていて、扉 (以下、後ろ戸と併記) の向こう側からこちらへ出てくる、巨大なミミズのようなモノ (以下、ミミズ) を封じ込める力を持っている。後ろ戸から伸びた巨大ミミズが空から大地に倒れこむと地震が発生する。
草太はすずめの部屋で傷の手当てをしている最中、喋る猫・ダイジンによって、すずめの亡き母との思い出の形見であった小さな椅子に魂と肉体を封じ込まれてしまう。逃げるダイジンと「俺を元に戻せ」とそれを追って走る椅子 (草太) を追って、すずめは宮崎から愛媛に行く。
※設定の話、詳細についてはいろいろありすぎるので後述します

愛媛、そして兵庫の廃墟・廃遊園地でふたりは後ろ戸を閉じ、東京へ向かう。東京でこれまでのミミズよりも遥かに巨大なミミズが出てきて、そのとき草太椅子は「要石」というものに変えられてしまい、後ろ戸の向こう側に行ってしまう。

東京で草太の友人・芹澤、宮崎からすずめを追ってきた叔母と合流し、ダイジンともう一匹の猫・サダイジンを加えた一行は"最後の場所" 宮城へ向かう。
宮城ですずめはこの物語の根源といってもよい扉の向こう側で草太を救い、その扉を閉じて物語を終える。

2. 物語の設定と詳細

キーワードは「要石」と「常世」だ。

すずめは2011年3月11日の東日本大震災 (当時4歳、宮城県) でふたり暮らしをしていた母親を津波で失い孤独になって、母の妹の叔母・環 (現在40歳くらい) のもとで育てられた。
すずめは震災で母を失ったときに彷徨いながら、後ろ戸の向こうへ迷い込んでしまったことがあった。そのためなのか、扉の向こう側の光景や扉から出てくるミミズが視え、扉を閉じる能力があった。

地震を起こすミミズは 「歪みが溜まると意味なく暴れる存在」 である。
古来から日本列島では東西にふたつの要石 (かなめいし) を置くことでミミズの出現を封じていた。
要石はそのときどきで場所を修正しつつ、神を宿した生き物が犠牲となって存在してきた。
ダイジンという子猫は物語冒頭でスズメが引っこ抜いた西の要石で、あとから出てくるも大きな黒猫・サダイジンは東の要石だった。

序盤で宮崎の廃温泉街で扉を閉じ、草太を椅子に変えたあと、ダイジンは要石の役割から (たまたま) 解放してくれたスズメに恋慕のような感情を持ったことがあとでわかってくる。またダイジンは椅子変化のとき、スズメの近くにいた閉じ師・草太に要石の役割をひそかに移動させていた。このときのダイジンは何か恐ろしく、魔法少女まどかマギカのきゅうべえのような恐ろしさを漂わせていた。
さて、この状態で、宮崎を始点とした愛媛・兵庫・東京・宮城へとつづいてゆくロードムービーが始まる。
この場所は、特に最初の3つは、今後高確率で発生するだろうと言われている南海トラフ地震の影響を受ける土地であろうと思わわれる。

すずめは明るい性格だが、震災を経験したためか、死を恐れない無常観というか強さのようなものを持っている。
すずめはイケメンで、何か悲壮感の漂う真剣な草太とへ恋愛感情に近いものを抱き、椅子にされた草太を元の姿に戻すためダイジンを追う。すずめにとって "非日常" の旅が始まる。すずめは各地で、あるいは移動の過程でいろいろな人と出会い、彼らの日常生活のほんの一端を少しずつだが、濃く体験する。愛媛では同い年の利発な少女やその家族、兵庫では姉さん肌のスナックのままとその小さな息子たち、スナックの女性やお客さんなど。
草太椅子とすずめは、愛媛では廃校の、神戸では廃遊園地の観覧車にある後ろ戸から出現したミミズを封じた。
扉を閉じるときは、そこに生きている人たちのことを強く思うことが力になる。
観覧車の扉で、すずめは「常世(とこよ)」を見て、吸い込まれそうになった。常世とはこの世界の裏側、すべての時間が同時に存在する場所だ。幼いころに迷い込んだ場所だ。そこには自分と"母親らしき"影が見える。

そして東京の草太のアパートにある文献から、東京には東の要石があり、巨大なミミズが封印されていて、解放されると100万人単位が死ぬ地震が起きると知る。(関東大震災の正確な震源は東京直下ではないが、それを想起させる)
ここで超巨大ミミズを封印するため、草太が要石となる。すずめは100万の命と草太の命の選択をせまられ (『天気の子』とは逆に) 都民の命を優先する。
このあとすずめは気絶し、草太になっていた母親との思い出の椅子が作られたときのことを思い出す。
草太を喪失したすずめは、彼を要石にしたダイジンに怒りと絶望をぶつけ、もう私の前に姿を見せるなと言われたダイジンは失望し、やせ細ってしまう。
すずめは草太を救うヒントを得るため、草太の祖父に会いに行く。祖父はすべてを察し、草太はこれから時間をかけて要石になっていく、そういう運命だから、余計なことをするなとすずめに言う。しかし、すずめは草太のいない世界が怖いと言い、自分は自分の意思で草太を救う思いを見せる。
お祖父さんからは、「君はかつて扉のむこうへ行ったことがあるはずだ」というヒントを与えられる。

ここからクライマックスに向かっていく。すずめが自分の過去と向かい合うことになっていく。
宮崎からスズメを追ってきた叔母・環と東京で再会する。草太のことを心配する明るく軽薄っぽく見える彼の友人の芹澤の中古オープンカーで、一行は東北自動車道に乗る。道中、震災で母を亡くした幼いすずめを28歳くらいで引き取って彼女のために人生の大事な時期を(婚期/機を逃してまで)費やして育てた環と、叔母のことを口うるさいと思っていたすずめのえげつなく悲しい衝突と、そのあとの美しい和解が挿入される。これはすずめとダイジンの関係に似たものがある。(ダイジンとすずめもこのあと和解する)
このあたりで東の要石だった黒猫・サダイジンが加わる。喋る猫たちを目の当たりにしたビックリで車が事故ってしまい、ここから壊れた自転車を環が漕いで、後ろにはすずめ、カゴには猫神二匹が乗って目的地へ向かう。

宮城(仙台?)で、かつての自宅があった場所の土中でにある、子供のころに埋めたタイムカプセル的な箱から、4歳当時のすずめの日記が出てくる。3月11日のことが書いてあって、そこから先の日記は黒く塗りつぶされていた。ここから、扉の場所を思い出す。ラスト"バトル"へ向かう。

常世に入ったすずめは、まがまがしい様になっている宮城の"あちら"の世界から「ふたたび」現し世へ出ようとするミミズをとめるため、そして要石となっている草太を救うため、自分が要石になろうと決意する。このとき、草太の思念や記憶をすずめは幻視する。草太が東京で要石としてはめ込まれるとき、最後に死にたくない、と思っていたことも知る。しかしすずめのことが好きで、すずめの思いを深く知ったダイジンが要石となる。

すずめはこの常世で幼い自分を見つけ、声をかける。常世はすべての時間が同時に存在する。
あなたは生きていくのだ、大人になっていくのだ、と、4歳の自分に語る。すずめの幼い頃の記憶、兵庫の常世で見たのは、母親ではなく未来の自分だった。(このとき草太も一緒にいたので、草太と最初に会ったあと、どこかで会った気がすると思っていた)
絶望に暮れていた自分に希望を与えたのは、自分だった。
このとき幼いすずめに例の椅子を手渡す。
すずめと草太は扉を閉じ、鍵をかける。「すずめの戸締り」というタイトルが出る。
ラスト、宮崎の「いつもの日常」で、またそこに来た草太と、最初と同じときのようにバッタリ会う。すずめは草太に「おかえり。」と言う。
これが描かれたお話だ。

3. ここが良かった!

まず、本作は東日本大震災の被災当事者を主人公に据えているので、その解釈で賛否がたくさん出てくるであろうこと、それを意識して非常に繊細に気を使うと同時に、地震速報のあの音など含め、大胆に「あの出来事」をエンタメ作品として出した、その新海誠の勇気に敬意を表する。もちろん作品は観た者が好き勝手に解釈して言いたいことを言えばいいと思う。これから起きる議論や評論もだいたい想像はつくが、僕は僕の感想を書く。僕の感想はとてもシンプルなものだ。要石や常世がどうとかいう民俗学的な、あるいは深読みの考察ではない。

扉(後ろ戸)は廃墟に存在する。温泉地、学校、遊園地、そして震災の跡地。人間の社会というのは当たり前だが廃墟を生んでいく。しかしそこにはかつて人々が生きて、様々な思いを残した時間がある。
僕は「人々が生きて、やがては消えていった時間、場所」というものに異様な執着を持っている。いわゆる死生観だ。「ブラタモリ」なとが好きなのは、地政学や地質学的にその土地その土地で生きてきた人々の営為が痕跡となって残っていることに、人の世に、またその社会に、はかなさや希望を感じるからだ。いま生きている自分が居なくなったあとも、世界はさまざまな興亡、災厄に見舞われながらも、ものすごく根本的にはこれまでと同じように続いていく。
過ぎた時間は消えてなくなるわけではない。人間の思いや行動は、別の何かにカタチを変えて残っていく。そのことへの崇高な思いを抱いている。
そしていつの時代にも、人々は自分の生まれた場所や縁のあった場所で、日常を生きている。

あたりまえのことだが、世界が長く続いていくなかで、日常というものは、人の意思に関係のない災害や人間社会が生んだ何かにより、突然に破壊されうる。大きな災害、パンデミック、戦争、不意の事故、等々。誰もが知っている。
ある朝の「いってらっしゃい」が、その相手に声をかけた最期の言葉になりうる。「おかえりなさい」が言えない状況がいつどんな形で襲ってくるかなどわからなかったりする。いつ終わりになるかわからないということをわかってはいても、終わりが来ることをいつなんどきもリアルに想像して生きているわけではない。それでも日常を営んできたのが我々人類だ。

すずめの生い立ちの話は、あえて置いておこう。僕は作者は「震災から立ち直れ」と言っているわけでは絶対にないと思う。

中盤までのすずめの旅は、人々と触れ合うことが、そして人々がその土地土地で日常を生きているそのさまが、尺ではなく、表現で、丁寧に描かれる。
愛媛では同い年の子と仲良くなり、自分には経験のない恋の話をする。その子の旅館とその家族、あるいは魚の夕ご飯と朝ごはんがとてもおいしそうに描写される。兵庫ではスナック経営の女性とその小さくてかわいい子供たちやスナックの酔っぱらい客のカラオケがあり、ここでもポテサラ入り焼うどんがおいしそうに描かれる。すずめは非日常の旅をしているが、旅先の日常を見る。東京都心はそれまでと違いやはり少し異質な場所として描かれるが、そこにもたくさんの人たちが日常を生きていることが見てとれる。くりかえすが、そのような人々の暮らしは、廃墟となってしまった場所にもあった。新海誠はまずもって人が生きている/生きた土地の記憶、場所の記憶というものがあるんだ、と言っている。廃墟の扉を閉じるとき、すずめはそこで生きた人々の声を聴く。この前半のパートがとてもよかった。

(また、扉を封じる場面の演出、アクションがスリリングだった。特に兵庫の夜の廃遊園地の電気が発動し灯るところとか、ラストの「ワルプルギスの夜」的な描き方とか)

扉のむこう、あらゆる時間が同時にある常世はいわばあの世のように描かれるけれど、現世の人のこころだって、時間は一本の線ではなく、無数に生きて鼓動しているものとして在ると思う。大震災で直に被災した人のなかの時間と、まったく関係しなかった人のなかの時間がどのようなありかたの違いをしているのかなどはわからない。悲しみや喪失が時間として挿入された人間に「つらかったことを忘れろ」と言うでもなく、しかしそれと向き合うことは避けられないなかでどのように立ち向かうのかを、作者は主人公を通してひとつの希望を提示した。だが、それはべつに「答え」ではもちろん無い。
災害でなくても、人は自分に起きたことには自分で向かい合うこと、立ち向かうことからは逃れられない。そして、人間たちが立ち向かって生き抜いてきたからこそ、いま、我々は生きている。それを続けていく。

この作者の、現実の色彩よりも鮮やかに街や自然を描く感性には、現実の街や自然を眺める目を変えられる力がある。日常は本来は鮮やかなものなのだ。いつ破壊されるのか、自分が消えるのか、親しい人が消えるのかわからないからこそ。
こんなところが第一の感想ですかね。

あと、旅の日々もそうだし、中盤から軽薄ノリの男が出てきて核心の場所"宮城"へ向かう車で昭和の懐メロを流すのもそうだし、神猫たちも、終始作品の空気は明るい。というか重々しい題材を扱っているからこそ、全体的に元気な感じを醸し出すようにしている。暗くすることはいくらでも出来る話だから、この演出が非常に好ましかった。明確に意識されていた『魔女の宅急便』も、明るい映画だった。

本作を震災当事者がどう見るのかは議論になりそうだけれど、どう解釈したっていいのだから、僕はこの映画に感情移入して楽しんだ。消費をしたというよりも、何かをもらった感覚になっている。それでいいんだと思う。

いまの社会は、誰かを救済することがべつの苦難を生む、そういった複雑さが絡み合っているから厄介なのだが、人間がこれまでのように営みを続けていくことを多くの人は願っている。(そうではない人もいるだろう)
その営みは続いていく日常と、それを破壊する運命のなかで蠟燭の炎のようにあやうく保たれているだけだが、だからこそ日々を大切にしたい。
「おかえりなさい」を言えないとしても、「いってらっしゃい」と言い続けるのが我々なんだ。

その他、叔母とすずめの関係とか、ミミズって村上春樹の震災小説集『カエルくん、東京を救う』そのものじゃね、とか、すずめの恋愛ってべつに恋愛じゃないよなとか、Google MapみたいなものやLINEが効果的に描かれているとか、細かいところはいくらでも言いたいんだけれど、このへんにしておこう。

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