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見えない引力と見えてくる底力 〜生徒と教師が切り拓く「成長」ロード〜

継続できることこそ強さ


 月並みではあるが、継続することの大切さに触れてみたいと思う。「継続は力なり」という誰しもが耳にしたことがある言葉がある。おそらく9割以上の生徒がこの言葉に疑いを持っていないと思う。そうであるにもかかわらず、自分の苦手なことに対して、継続して取り組めている人がどれくらいいるだろうか。私も含めてだが、人間は弱い生き物で、楽な方へ楽な方へ、面倒なことからは目を背けたいという思いが現れない人はおそらくいないと思う。ここで大切なのが、心の「強さ」である。物事を継続させることは心の「強さ」以外の何物でもない。あくまでも苦手なものの克服に対する継続に関してのことである。楽しいもの、好きなものは黙っていても継続していく。楽しいもの、好きなものに「苦」はほぼ発生しない。

 では、苦手なものを克服するために、どのようにしたら継続することができるのだろうか。そこには決まった正解はなく、私の経験からの見解を示してみたいと思う。それは、楽しいものや好きなものには「苦」が生まれないのであれば、苦手なもの中にも一つで良いので、楽しいと思える要素を植えつけることである。しかし、そんなに簡単ではないことは誰しもがわかっている。実際の経験をもとにお伝えしたい。

 私は今でこそ英語の教員をやっているが、英語がそんなに好きではなく、得意ではなかった。しかし、生業にまでしている現在に至るまでには苦手を克服した経験が当然のようにあった。それは、とにかく外国人と話すということ、英語の音楽、映画に触れることであった。話をするのが大好きで、暇さえあれば話をしているような性格であった私は教員にはなりたかったが、英語を教えるということはほとんど頭にはなかった。しかし、英語ができないことにはいい大学に入ることはできないし、ただ単純に当時苦手だった英語で補習や再テストを受けるのは絶対に嫌であった。私にはたまたま英語に触れる環境が身近にあった。母親が中学校の英語の教師をしていたのでネイティブ教員が自宅を訪れてきたりすることがよくあった。最初はよくわからないので自分から積極的に話をすることはなかった。しかし、英語は苦手ではあったが、嫌いではなかった。海外に興味はあったし、外国で話ができるようになりたいなという思いは持っていた。前述したように、やりもしないで「無理!」と決めつけていたように思う。そこで、少しずつでいいから自分から声をかけてみることにした。案外通じるではないか。通じるというのはここまで気分のいいものなのか。という、言わば成功体験から自信を手に入れたのである。そこから、おすすめの音楽を聞いて、映画について話をするうちに楽しさしかなくなった。こうして、継続的にまた意識的に英語に触れることで英語の学習の中に楽しさを見出し、今では英語の教師という当時は考えてもみなかった仕事をしている。

 今、英語を例にとって説明したが、日本の英語教育は生徒から楽しさを奪ってしまっているように思えてならない。受験英語。当然、生徒にとって必要であるから、それに一緒に向き合う。そして、生徒の言いたいことは英語から伝わってくるにもかかわらず、文法が間違っているからと×や△をつけなければならない現状。当然、正しくないから×をつけるわけだが、英語はあくまでもコミュニケーションツール。伝わればいいのでは、という葛藤。これからも直面していく葛藤であることは間違いない。生徒が学びを前向きに継続していくためには、時と場合を考えて対応してあげることが大切であると考えている。

 生徒諸君はやろうとしていることは間違っていないし、継続して取り組もうとしていることは正しい正しくないの議論の前に評価すべき姿勢である。だからこそ君たちは学びを止めてはいけない。継続することこそ強さであるわけだから、周りに気を取られ足を止めてはいけない。そういう姿勢を失わせないために我々教員側もうまくやる気を引き出してあげて、継続できる環境を支えていかなければいけないと強く感じる今日この頃である。

 勉強だけではない。好きなことでもいいし、頑張ろうと自分の中に持っていることを是非ともまずは1か月で良いので継続してみてほしい。最初は途切れそうになることもあるかもしれない。自分を鼓舞することが面倒なことと見えてくるかもしれない。しかしある時、意識しなくとも自然とやっていることに気付く時が来る。そこまで来たらもうしめたものである。継続してきた足跡と継続から生まれる力、知識が君たちの人間としての強さに結びつくことは間違いない。

言葉が生み出す過去には見えなかった自分


 私も含めて、普段発する言葉を一言一句確認するように発している人はいないと思う。しかし、ここはという時、例えば顧問の先生と話す時や授業中に発表する時、面接試験を受けるときなど、しっかりと話の内容や言い回しを気にして話をするというシーンがある。そこには「失礼のないように」「人前で話しても恥ずかしくないように」「自分をしっかりと見てもらうために」という意図が含まれているのではないだろうか。そのような思いを持っている人は、少なくとも言葉を大切にしているということが言えるだろう。もちろん、友達同士だから汚い言葉で良い、言葉に気を付けなくても良いという意味ではない。やはり、「ここ」という見極めを意識して、言葉というものを大切にしていきたい。高校生になると少しずつ将来を意識するようになる。これは当然のことであるが、それに合わせて不安が増大する人も少なくない。もし不安を抱えているならば、言葉を意識してほしい。それも外に発する言葉である。言葉を発するということは自分という人間を外に出すことと言っても過言ではない。また、発した言葉の方へ自然と引っ張られていく。なので、本音・本心を意識して自分の意識をそちらに向けてみてほしい。そうすれば自分がそれに見合った行動を起こそうとして自分が変わっていける。ただし、自分の正直な気持ちと強い意志を伴わせるというのが絶対条件である。過去には見えなかったというより想像すらしていなかった姿へと変貌を遂げることができる。強い意志を持った言葉には過去の自分を更に大きくさせる不思議な魔力がある。

転がっているチャンスを見逃すな


 人はどのタイミングで成長を遂げるのだろうか。高校?大学?社会に出て?知っての通り、人によって転換期というのは違ってくる。さらに人生で何回もそのチャンスは巡ってくる。

 では、どういう人間がそのチャンスがたくさん巡ってくるのであろうか。それは、常にどこかに転がっているであろうチャンスにアンテナを張っている人であろう。毎日毎日自分の周りには無数のチャンスが転がっていると言っても良いだろう。一つ一つの事柄をどの様にとらえ、どう生かしていくか。もちろんすべてそのような感覚の下で自分をコントロールしている人はいないと思う。いかに自分の成長にあったものを自分の生活から見つけ、自分に還元していけるかがカギである。

 ところで、あなた方は常日頃からたくさん転がっているチャンスをしっかりと拾い上げているだろうか。もちろん簡単ではないが、見逃してしまっていることの方が多い人がたくさんいると思う。

 それでは、どのようにしてチャンスを見つければいいのか。それは頭を常に動かすことだ。すなわち、「考えること」。最近、いろいろな指導者などが、「考動」という言葉をよく使う。まさに、考えて動く。「え、それだけ?」と考える人がいるかもしれないが、意外と何気なく時間を使っているという人は少なくない。

 例えば、先生に怒られた時、その時がチャンスと考える人がどれだけいるだろうか。怒られるのは気分が良くないし、自分なりに考えて起こしたことに対しての叱責であれば、言われたことを素直に受け入れがたい時もあるだろう。もちろんすべてがあなたを否定しているわけではないこともあるだろうが、気分は良くない。しかし、「あの先生があそこで叱ってくれたから今がある」なんてことを考えることがよくある。さらに、「あの時は俺が幼かったな」という感情が芽生えることもよくある。もうお分かりだろう。その時が成長のチャンスだったのだ。しかし、その時は怒られたことばかりが先行して、自分で冷静に成長へと結びつけることができなかったのだ。しかし、時間が経って「あの時は・・・」と思えるだけで、時間差ではあるが成長を手にしている。しかし、その場で考え、行動していたらどうだろうか。

 しかし、成長は焦ってするものでもない。失敗体験、成功体験を重ね、少しずつでも日々前進していくものかもしれない。その日々前進のためのファクターとして、「考動」を心掛けてほしい。大きな前進ではなくとも、周りに転がっている無数のチャンス因子を拾い集め、着実に一歩一歩進んでいってほしい。

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