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見えない引力と見えてくる底力  〜教師と生徒が切り拓く「成長」ロード〜

自分の魅力探求は面白い

 自分の魅力って何だろう。考えた事はあるだろうか。「あなたの魅力を10個あげてみてください」と言われて、すぐにあげることができるだろうか。学生に限らず、多くの人の答えが「NO」であることは経験上容易に想像がつく。しかし、それはその人が魅力的ではないということに等しいとは私は思わない。そこに日本人特有の照れや謙虚さが関係しているのかもしれない。または、たくさんある自分自身の魅力に気づいていないのかもしれない。ぜひ、皆さんは自分の魅力を自信を持って語れる人間になっていただきたい。それがたとえ勘違いであってもいいのではないだろうか。自分がそう思うのなら、そこに近づこうとする力が発せられる。それが自分磨きである。
 それでは、皆さんが知らないであろう私が自分の魅力について紹介しよう。
(1) 人を大切にできる→人が好きである
(2) 思いに向けて時間を惜しまない
(3) 思いをすぐに行動に移すことができる
(4) 後に引き摺らない→割り切ることができる
(5) 多趣味である
(6) 話で人を惹きつけられる
(7) アイディアマン
(8) 好奇心旺盛
(9) 他人本位になることができる
(10) 明るい性格
 おそらく私は、「あなたの魅力を10個あげてください」と言われたら以上のようなことを迷わずにあげるだろう。あくまでも10個と言われれば以上のようになるかもしれないが、まだまだあげることはできる。これらを聞いて、「自分で言っちゃうの?」と考える人もいるだろう。そんな意見を私は気にも留めない。なぜなら自分で作り上げてきたものであるし、自分でこうありたいと探求してきた姿であるからだ。それ自体が私が歩んできた道であるからだ。何も経験もせずに自分の魅力というのは形成されない。これからはあなたたち自身が歩んでいく道があなたの魅力へつながっていくのである。うまくいったことはもちろんのこと、失敗を経験することであってもあなたの魅力へと引き上げてくれることもたくさんある。大事なのはたくさんのことをたくさん経験することだ。興味があることを楽しく経験するのもいいし、敢えて難儀な場面に自分の身を置き、それに対する成果が自分の魅力へと進化を遂げていく。「あなたの魅力は何ですか」と面接などで聞かれるからと無理に絞り出そうとするのではなく、普段の活動での取り組みや成果があなたの魅力そのものであることを理解しよう。そうすればわざわざ考えなくても「自分はこんなことをやってきた、こんなことができる」と堂々と言うことができるだろう。むろん、堂々とものを言えるというのも魅力の一つであろう。ただ、なかなか自分の魅力を見つけようと行動する人はあまりいない。興味を持っていろいろなことにチャレンジする、嫌なことでも諦めず努力し続ける、ただそれだけで自分の武器を手に入れることができるということを覚えておいて欲しい。そもそも魅力というものは自分で形作るものではなく、思いや行動からにじみ出てくるものである。だからこそ、「あなたの魅力は?」と聞かれたときに、変に意識せずに自分が気持ちをこめて取り組んでいることをそのまま表せばいいのだ。
 私で言えば、(1)人を大切にできる。これは今までの成長過程で、家族、友人、恩師、教え子、同僚などたくさんの人に支えられて生きてきたという思いがある。だからこそ、単純にその人たちを大切にしようという思いで日々暮らしている。でも、人への感謝の念や思いやりがない人はすぐに人を傷つけてしまう。人を大事に思い、大切にしていくことは当たり前のようでなかなか難しかったりする。人間は感情を持つ生き物であり、自分にとって目障りな人に対して攻撃してしまうこともできてしまう。そこでそのような負の感情を抑えて、人を大切にできるというのは、自分の魅力と語っても良い、その人の素晴らしい一面である。
 また、(5)多趣味である。これを見て、「何が魅力なの?」と感じてしまう人も多くいるだろう。これは表現の問題なのかもしれないが、私は「多趣味=多志向、多思考」と捉えられるのではないかと考えている。これは(8)の好奇心旺盛。と重複する部分があるかもしれないが、趣味には正解はなく、自分が思っているように解釈して行動を起こせるという側面があると考えている。いろんな考え方を用いていろいろなことに取り組む。やった人しか味わえないものを手にすること、感じることは人間をも動かす。行動は人を変える。すなわちリーダー的な思考の元、人を引っ張っていく力だと考えている。それを持ち得ることは人間的な魅力ととらえることができるのではないか。
 今回この文を書くことで皆さんに知っていただきたいことは、他者ではなく自分を見つめ、自分を知り、自分を表現できることこそが、自分だけでなく、周りをもいい方向に引っ張っていくことを認識するための手助けとなってくれれば幸いである。しかし、簡単に言ってしまったが、自分が周りを引っ張っているなんてことは見えもしないし、意識して考えることではない。あなた方が知っておくべきは、「自分」を磨くということ。そのことが、見えない引力を生み出し、周りにも良い影響が派生していく。それができる人間がいる環境こそが成熟した人間集団へと変貌を遂げていく。
 (9)の他者本位になることができる、ということであってもあくまでも「自分」あっての他者目線である。自分を持っていない、大事にできない人が他者の目線で行動できるわけがない。「自分」という存在をベースに他者の領域に寄り添ってあげるという表現が適切であるだろうか。他者に成り代わるのはどんなことがあってもできない。かと言って、「自分」というものをはっきりと持っていない人が他者に寄り添っても、無責任で鬱陶しいだけではないだろうか。

「やればできる」は嘘じゃない

 お笑い芸人のティモンディの高岸宏行さんが「やれば出来る」という一言でその場の空気を制する場面をテレビでよく見る。一発ネタのように使われている印象が強いが、この言葉は彼が卒業した、甲子園にも何度も出場したことがある野球の強豪の愛媛県の済美高校の校歌で歌われているフレーズである。「やれば出来るは魔法の合言葉〜♪」彼はこの校歌を何度も歌って、実感があるからこそ今の芸に据えているのかもしれない。
実際に教育現場に立つ私は生徒が発する「無理!」という言葉が大嫌いだ。その言葉を発する生徒の多くがやりもしないで、自分のイメージで決めつけて逃げてしまう。人は強くない生き物なので気持ちもわからないでもないが、しかし、やってみると意外と無理ではないことが多いものだ。要は「やるかやらないか」「(失敗を恐れず)やってみるか決めつけてチャレンジしないか」の違いなのだ。
小さい頃のことを考えてみてほしい。怖いもの知らずという言葉があるように、失敗を恐れずにチャレンジしたからこそ今になってはできて当たり前であることもその時に身に着けたものが多い。私には息子がいるが、その息子がまさにそれを体現した出来事がある。それは補助輪なしの自転車に乗ることだった。誰に似たのか何をやるにもビクビクと慎重になる性格が幼少のころありありとしていた。自転車ぐらいは少しやればすぐできるようになると思い、自転車を買い与えたが、「別に好きじゃない」とか「小学生になったら乗れるようになる」などとそれらしいこと言って、乗る練習すらしなかった。今考えると転ぶのが怖いとかどうせやってもできない、できない自分が恥ずかしいという理由で逃げていたのだと考えることができる。そこで私は何をやったかと言えば、あえてその自尊心にメスを入れた。ここでの加減を間違えると逆効果なのでお気をつけて。
「周りのみんなはスイスイ乗って気持ちよさそうだね」「あ、女の子も上手に乗っているね」なんて言いながら、「でも(○○息子の名前)は別に好きじゃないからいいんだよね。無理にやらなくてもいいよね。」「でも自転車乗れない子ってあんまりいないよ。やりもしないで乗れないってお父さんはカッコ悪いと思うな」と。ここで賛否両論あるだろう。子供のやりたいと思う気持ちが起こる前に無理やりやらせるのはいかがなものか、という意見もあるだろう。私は親として毎日息子と生活する中で「自転車に乗れること」を求めていたのではなく、決めつけの下で本当はやりたいことから逃げている姿勢を正しかっただけである。自分で自転車を買ってほしいと言っておいて、「別に好きじゃない」なんて。好きじゃないわけがない。乗れなくてもいいなんて思っているわけがない。そう判断してのアプローチであった。
今でも覚えている。そんなやり取りをして、最後に「お父さんがついてるから、一緒に練習しよう」と言って、近くの広場で練習を始めてものの2時間くらいで乗れるようになった。そして、息子はこう言い放った。「もっと早くやればよかった」(笑)その日以来、慎重派だった息子がこちらがストップをかけなければいけないくらいチャレンジ精神旺盛になった。間違いなくこの自転車体験が彼を変えた瞬間であると自信をもって言える。彼の中に「やればできる」という概念が備わった瞬間であった。

「やるからできるが生まれる」「やらなくしてできるは生まれない」

 息子の例を挙げて述べたが、「できる」という力が備わるのは、やるから備わるのであって、やらない人が「できる」を習得するはずがない。もちろん、生まれながらに備わっている力は抜きにしよう。自分の生活の中で、「こういう人間になりたいな」とか「こんなことができたらいいな」などと思い描くことは誰にでもある。また、人に対して「こういう風になってほしいな」と願うこともあるだろう。例えばこんな例はどうだろう。今、ものすごい人気があるK-popミュージックが好きで毎日のように聴いている人がたくさんいると思う。そのうちに、「ハングル語がわかるようになりたいな」「韓国に関係する仕事に就きたいな」と思いをはせるかもしれない。しかし、「無理だな」「難しいから音楽を聴いているだけでいい」「かっこいい○○君を見ていればいい」と言って、そこまで深く学ぼうとはしないのが大多数だと思う。でもそれはそれでいいのだ。趣味嗜好に「こうしなければいけない」というルールめいたものは存在しないからだ。しかし、世の中には「好き」が高じて、できなかったことを可能にする場合がよくある。K-popの話が出たので、私の教え子の話をしたい。     ある女子生徒であった。その生徒はK-popアイドルが大好きであった。しょっちゅうその生徒は、
生徒:先生、○○めっちゃかっこよくないですか?
私:え!?別に[心の声]
生徒:私、ハングル語が少ししゃべれるようになったんですよ。
私:英語もそれくらいやったら?(笑)[心の声]

 ところがである。その生徒は本当にK-popが大好きで会話ができるくらいまでハングル語をマスターしてしまったのだ。修学旅行で東京に行った際に彼女は新大久保へ行きたいと言って行程を計画した。ご存じの通り、コリアンタウンがある密かな観光スポットだ。そこへ行った彼女が、自分が習得したハングル語が通用するのか試してみたと言ってきた。それがかなり長時間の会話が楽しめたそうだ。それどころか、一緒に渋谷の街まで繰り出し、集合の時間まで一緒に時間を過ごしたというから驚きであった。彼女はなぜそこまでハングルにのめりこんで、どうやって習得したのだろうか。答えは簡単である。「好き」が彼女を突き動かし、「チャレンジ精神」が上達へと導いたのだ。彼女の素晴らしいところは、あきらめずに続けたことである。
 さて、皆さんの中にやりたいけど、失敗を恐れて、難しいから無理と決めつけて立ち止まって、一歩踏み出せていない人はいないだろうか。本当に好きで、本当にやりたい、手に入れたいのなら、思い切って飛び込んでほしい。なぜなら、黙って指を咥えていても、願い事を紙に書いて、笹に括り付けても、サンタさんにお願いしても自分が動かなければ実現はありえないからだ。まずは「やること」。「できるできない」を自問する前に、「やるのかやらないのか」を自分で覚悟として持ってほしい。何もやろうともしないで「~したい」「~なりたい」というのは都合が良すぎる。自分が何かを求めるときには苦労がつきもの。そんなに簡単に何でも思い通りになるなんて社会に出たらそんなに多くないのではないだろうか。しかし、「好きこそものの上手なれ」という言葉がある。好きで自分が望むことであれば、うまくいき、意外にあっさりと習得してしまうものである。要は踏み出す強さである。ここに打ち勝つ気持ちの強さがあなたの人生を飾る一役を担ってくれることは間違いないと断言できる。
 まずは「やること」。やらなければ、できるできないどころではない。新しい発見もできなければ、自分を成長させることもできない。「やらずに後悔するなら、やって何かをつかめ!」これをお伝えしたい。「~したい」「~なりたい」がスタートであったのにまた別のことも見えてくる、なんてことがよくある。とにもかくにも、失敗を恐れず、まずは一歩踏み出そう。あなたという人間はあなたが思っている以上に高いポテンシャルを持っている。それに気づいたとき、あなたの成長は急加速していくこと間違いない。
 すぐに口をついて「無理!」と口癖のように発してしまう人。ちょっとしたことでいいので今までにやってもみなかったことにチャレンジして、「やればできる」体験をしてほしい。

できるできないを求める前にやるかやらないかを求めよ

 すぐに「できるできない」の指標に自分を乗せたがる人はいないだろうか。できるできないを区別できるくらいに「やっている」のだろうか。幼少期を思い出してほしい。校庭にある鉄棒に出くわし、いきなり逆上がりができただろうか。「こうしたらできるかな、もっとやってみようかな、もう少しでできる」という指標で物事を見ていたのではないだろうか。やってはみたけど、いきなり「あ!無理だ」とすぐに決めつけてきただろうか。少なからず、できない自分に恥ずかしさや情けなさを少しだけ感じ、「できる」ようになるために練習を
一生懸命に「やった」のではないだろうか。どうかその精神を見失わないでほしい。
教育現場でよく出くわすのは、テストの後に、「先生、私やったんですけどできませんでした」と言ってくる生徒。確かに十分やったけど中身が難しくてテストではやったことが発揮できなかった生徒もいるだろう。しかし、それでやった気でいるの?と思ってしまうことがよくある。「やった」という事実目線で言えば、確かにやっている。ところが、高校生くらいになると、理解して、習得して初めて「しっかりとやった」という括りに入れることができると考える。何か一つのことを本当に理解し、自分のものにしようとしたら、それ相応の時間と労力を要する。そこの実感がないのにやった気でいるのは、当の本人だけ。もちろん目指すは100%だが、100%理解できない人に「やっていない」と言うつもりは到底ない。「理解したしていない(できるできない)」は後から結果としてついてくるもので、まずは「自分の力」を100%それに注ぐことに目を向けてほしい。
なぜそこを指摘するかというと、やはり自分の力を出し切らないことには、本当の意味での「できるできない」の議論にはなりえないからである。まずは、1歩踏み出して、その時点で可能な力を100%注いでみて、自分の現時点の力を理解することから始めよう。そうすれば、今何をしなければいけないのか、もっと伸ばすためのヒントが見えてきて、さらなる向上を図れるからである。やらずして自分の位置を決めつけてしまうことほどもったいないことはない。「やればできる」それを信じ、チャレンジしてほしい。それができる年代なのだから。

楽は苦の種 苦は楽の種

 皆さんはこの言葉を知っているだろうか。文字の意味を考えれば、自ずとイメージはできるのではないだろうか。
 楽は苦の種 苦は楽の種・・・「怠け(楽をすること)は苦労を生み、(自ら)苦労すると楽しいこと(良いこと、幸福)を生み出す」という意味のことわざである。
 皆さんは自分の生活に当てはめてみて納得するだろうか。私は大変納得してしまう。まさに私の人生最大の失敗がこの言葉を体現しているからである。
 私は大学を4年で卒業することができなかった。しっかりとやっていれば、4年で卒業していた。これが当たり前の考えである。しかし、私は5年かかってしまった。それはなぜか。私が怠けていたこと1点にその答えがある。私は体育会の野球部に属していた。とにかく野球が好きで、毎日の生きがいのように野球に明け暮れていた私は、キャンパスがグラウンドから離れていたことを言い訳にして、学校をとにかくサボっていた。「何とかなる」の精神だったのだ。しかし、そんな怠け心は自分自身に天罰を下した。卒業者氏名発表の時は全く何が起こったのか理解できなかった。そんな時に怠け者は自分勝手である。「なんで俺だけ?」とやけを起こして、「やってられない」と夜通し酒を飲んだ。ところが、そんな私にも冷静に叱り飛ばしてくれる仲間がいた。「お前が悪いんでしょ?野球だけやりたいなら大学に来る必要ないよ。親に申し訳ない」その時私は、イライラして仲間を睨みつけていた。今考えると「なんと自分は小さい人間なんだ」と顔から火が出そうなくらい恥ずかしく幼稚だったなと思い出される。しかし、そうやってズバリ言ってくれる仲間がいたから、今自分を恥じて改心して、生徒達の前で話ができる。やっても来なかった人間が何を偉そうに思われるかもしれないが、本当に生徒達には私と同じ過ちを犯してほしくないから真剣に話をするし、自らをさらけ出している。自らに仮面を被せて話したって伝わらないし、必ずどこかでボロが出る。
 決して自分を美化するという意味ではなく、ひとつはっきりと伝えておきたいことがある。それは「経験」を大事にすること。私は大学時代、大きな失敗を経験している。失敗を経験したものが、自分がしてきてもいないことを偉そうに言うことができるのか。1つの条件がクリアできれば私はOKだと考える。その条件というのは、失敗したことを美化せずにさらけ出して、そこから感じたことを心から伝えることだ。失敗をさらけ出してもそれを挽回する苦労をしていないのであれば、「口だけ」という評価が下る。言葉というのは人を幸せにもできるし、不幸にもできる。それだけ、何気なく口先だけで語るのは避けて通りたい。だからこそ「経験」を大事にしてほしい。経験なくして、語るべからず。私であれば、留年というものを経験して、そこから情けなさや人への裏切りを感じ、自分なりに1年間精いっぱいやり切った。「経験」の中でもやはり人間を大きくするのが、苦労を伴う経験である。ある売れないお笑い芸人が、自分を信じ、芸人としての給料がほとんどない中で、生活を切り詰め、アルバイトを3つ掛け持ち、寝る間も惜しんで生きるための苦労をしたという話をよく耳にする。その苦労は無駄なのか。必ず見てくれている人がいて、いい方向へ引っ張っていってくれる。いわゆる恩人との出会いである。一人で苦労することは並大抵の精神力では成し遂げられない。まずは人との出会いという花を咲かせてほしい。苦労体験は花を咲かせるための種のくすぶりだと思って、すぐに投げることなく継続して乗り越えてほしい。その先で種が膨らみ、満開の花を咲かせるのは、あなたの苦労体験に比例してくるのだ。
 今、人との出会いということに触れたが、私の持論は「人との出会いが一番の花咲きである」よく言われるのが人は一人では生きていけないということである。大正解である。かけがえのない存在に出会うことが第一関門だ。どういう人がかけがえのない人なのか。それは人それぞれなのかもしれない。私なりに分析すると、「真の自分を見失いそうなときに引き戻してくれる人」ではないだろうか。甘えさせてくれれば人はとことん甘えてしまう。きつく当たられすぎても信頼は揺らいでしまう。心を許せて、だめになりそうな自分をきっちりと引き戻してくれる人が大切な存在であると「自分は」考える。自分にとってどんな人がかけがえのない存在で、自分のプラスになるのかを見極めることも大切なことである。
 しかし、当然のことながら自分が第一である。自分をしっかりと持つということが大前提であることは間違いない。それでも自分に足りないことを気づかせてくれたり、補ってくれる人を見つけれたら、あなたの未来は明るいものになるだろう。

チャレンジした君へ 「君は確実に人の3歩先を行っている」

 チャレンジが無駄だったなと感じたことがある人がいるかもしれない。果たしてそうだろうか?私はそうは思わない。よく「失敗は無駄ではない」と言われるが、それと同じことである。確かにチャレンジすることには前述したように、時間と労力を要する。それであまり変わり映えしていなかったら、「無駄だったな」と考えてしまうかも知れない。
 例えば、こんな生徒がいる。あまり勉強もしていないのにある程度のことはできてしまう。そんな生徒があなた方の周りにはいないだろうか。あるテストで自分は一生懸命勉強して準備をしたのに50点、勉強もしない生徒Aは80点であったら、きっと嫌になるだろう。しかし、そこで嫌になるメンタルではいけない。努力をしたことが、努力していない人の3歩前に行っていると言える。
 ウサギとかめの話を知っているだろう。ウサギは自分の体力に慢心していて、カメより先で余裕しゃくしゃく、昼寝をしていた。その間にコツコツコツコツ進んだカメはいつの間にかウサギに追いつくどころか交わしてゴールするという誰でも知っている話だ。まさにその話が教えてくれている。テストの点数だけ見れば、生徒Aが2歩も3歩も先を行っているかのように「見える」あなた方はその時の結果だけに目をくらませてはいけない。その時はじっと堪えてコツコツチャレンジを続ける。先々に目を向けたときに、トータルで3歩、いや5歩以上の差が生まれていることを忘れてはいけない。そう考えると、「今を頑張る」「まずは目先のことをしっかりと」という言葉の意味が分かるであろう。それが、あなた方が大人になり、今以上に活躍しなければいけない状況に置かれた時のあなた方の能力へと直結しているからである。大人になってから頑張ろうとしても、蓄積された能力を保持している者には及ばない。それどころか日々コツコツと頑張ってきた人は加速度的に自分の能力を発揮していくのだから。まさにウサギとかめの原理がピッタリと当てはまる。コツコツ頑張っている人は最初に張り切って突っ走っていても伸び悩んでしまう人を横目にどんどんと成果を上げていくことになるだろう。人は一気にやれることには限度があるが、コツコツと貯める能力には長けている。そう考えるといかに普段から継続していくことが大切であるかが見えてくる。しかし、それに気づかずに、大人になってからと油断している人は今からでいいので貯えを意識した生活を送ってほしい。

#学生生活 #考え方一つで #張りのある学校生活 #生徒を応援

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