W. H. カミングスとその音楽資料コレクション

 日本には、これまでほとんど公開の機会にめぐまれなかったクラシック音楽の資料(楽譜・理論書など)が、実は数多く存在している。ベートーヴェンやリストの自筆楽譜などを含む世界屈指の音楽資料コレクションでありながら、現在は非公開となっている「南葵音楽文庫」もそのひとつであろう。

 南葵音楽文庫は、紀州徳川家第16代当主徳川頼貞(1892-1954)が麻布飯倉の自邸に建てた音楽ホール「南葵楽堂」に付設された本邦初の公共音楽図書館であった。大正中期に活動を開始した南葵音楽文庫は、1923年の関東大震災で南葵楽堂の建物が使用不能になったことにより独立し、当時日本で唯一の音楽専門図書館として、海外の音楽書や楽譜、貴重音楽資料の蒐集に励んだ。しかし徳川家の財政難のため、1931年に閉館した。それまでに蒐集された数万冊にのぼる蔵書は慶應義塾大学図書館に委託され、1942年頃に徳川家の債権者であった大木九兵衛氏の手に移ったとされる。その後、南葵音楽文庫は、本土空襲が激化する中で千葉県勝山や福島県白河に疎開、戦後は1970年から駒場の日本近代文学館で一時公開されたものの、1977年に再閉鎖されて現在に至っている。このような流転の歴史にもかかわらず、南葵音楽文庫の資料コレクションは、幸いにも関係者の努力によって散逸をほとんど免れ、現在の所有者の手でひとつの場所にまとめて保管されている。

 この南葵音楽文庫の資料コレクションの中核をなしたのが、イギリスの音楽家ウィリアム・ヘイマン・カミングス William Hayman Cummings(1831-1915)の蔵書、いわゆる「カミングス・コレクション」(カミングス文庫)である。兼常清佐は『南葵音楽図書館所蔵カミングス文庫に就て』の冒頭で次のように記している。少し長くなるが引用したい。

蒐集という事業はまず一方ではこの世界の中の事物を見尽くしたい、知り尽くしたいという希望から起こります。然し知らんとする世界の範囲を如何に小さく限ったにしても、人間の力ではその中の事物を悉く見たり、知ったりする事は出来ません。また一方では蒐集という事業には、集めたものを長く保存しようという希望が重要な動機になっています。然しそれも僅に程度の問題であります。この世の中のものは、必ず、いつかは朽ちて、壊れて、亡びます。人間の力で、到底、時の威力に抵抗する事は出来ません。私共は勿論それを熟知しています。それでも、なお私共人間の力に許されている限りは、蒐集と保存の事業を見捨てようとはしません。それが国家的には大博物館となります。個人的にはこのカミングス音楽文庫の様なものになります。今この有名なるカミングス音楽文庫の一部が幸いに日本に将来されました。私共は、これで私共自身の蒐集の希望を大に満足させると同時に、英国の一音楽家が如何にこの希望のため努力したかを目のあたりに見る機会に接します。[1]

人間の力で世界中のものを集めつくすことは不可能だが、しかしそれが明白であってもなお、コレクションは知的好奇心を満たすために、あるいは貴重な文化を後世に伝えるために形成されてゆく。カミングス・コレクションの内容とその重要性を日本に紹介したこの兼常の文章を読むとき、南葵音楽文庫とその資料コレクションが形づくられ、そして今日に至るまでに辿った数奇な運命を思わずにはいられない。

 ウィリアム・ヘイマン・カミングスとは、どのような人物だったのだろうか。彼は、教育者として多大な功績を残すとともに、歌手、作曲家、音楽史学者として多方面で活躍した人物であった。

 カミングスの音楽活動は幼少の頃に始まる。少年時代、彼はロンドンのセント・ポール大聖堂の少年聖歌隊やテンプル教会の聖歌隊に所属し、成人後は、テノール歌手として、特にオラトリオ歌手として活躍した。1847年にメンデルスゾーンが自作のオラトリオ《エリア》のロンドン初演を自身の指揮によって果たした際にも、カミングスはアルトとして演奏に参加している。カミングスにとって、メンデルスゾーンはその生涯をとおして崇拝していた作曲家であった。カミングスが作曲した合唱曲やカンタータ《妖精の指輪》などには、メンデルスゾーンの影響が色濃く表れている。クリスマスに歌われる讃美歌第98番《天には栄え》(英題は《Hark! The Herald Angels Sing》(聴け! 天使の歌声を))も、メンデルスゾーンの原曲をカミングスが賛美歌に編曲した作品である。

 これらの演奏・作曲活動のかたわら、カミングスは教育者として、17年にわたって教授を務めた王立音楽アカデミーをはじめ、いくつもの音楽学校で声楽を教えると同時に、数々の音楽団体の設立、運営、指導にも積極的であった。さらに、彼はヘンリー・パーセルやヘンデルの研究家として、この2人に関する著作[2]をそれぞれ遺しているほか、論文も多数執筆しており、19世紀の最後の20年間、ロンドンの音楽シーンにあっては、まさに重鎮と呼ぶべき人物であった。

 カミングスが古い楽譜や音楽書のコレクションを始めたのは、19歳のときであった。そして生涯をわたる蒐集の結果、その保有数は晩年には4,500点にも達し、彼の蔵書は、ヴィクトリア時代最高の個人音楽資料コレクションとなった。そのなかには、数々の作曲家の貴重な書簡や自筆楽譜、インキュナブラ(初期印刷本)も含まれ、バロック期のイギリス音楽、とりわけ彼自身が研究していたパーセルやヘンデルに関しては優れた資料を多く保有していた。たとえば次のような資料がある。

・パーセル オペラ《ダイドーとエネアス》筆写譜。
 (現存するもっとも完全な筆写譜。)
・パーセルの父親の書簡、1678年2月8日付。
 (パーセルの家系を証明する世界唯一の資料。)
・ヘンデル オペラ《ムツィオ・シェヴォーラ》筆写譜。
・ヘンデル《デッティンゲン・テ・デウム》筆写譜。

 集められた資料が、研究者としてのカミングス自身の業績に反映されたことは言うまでもない。カミングスが校訂したパーセルの楽譜には、自身が所有する楽譜も大いに役立てられており、またジョン・ブロウやトーマス・アーンといった17、18世紀のイギリス人作曲家に関する彼の論文には、今日においても参照されるほどの充実した基本情報が収められている。

 しかし、カミングスの音楽資料蒐集活動が、単に彼の知的好奇心を満足させることのみを目的にしていたわけではない。カミングスは、「国立音楽図書館の設立について The Formation of a National Musical Library」と題する意見文[3]を残している。この著作においてカミングスは、貴重な音楽資料コレクションがオークションによってイギリス国外に流出してしまうことに警告を発し、これに対して有効な対策が講じられていないことを批判するとともに、大英博物館内に新しい国立の音楽図書館を設立するよう提言している。カミングスが古い楽譜や音楽書、とりわけイギリスの音楽資料を重点的に蒐集していたのも、やはり自国の文化を後世に残そうとする熱意からであったことは、想像に難くない。今日、カミングス・コレクションとして伝えられている資料には、いずれも表紙見返しにカミングスのイニシャル「W. H. C」を図案化した蔵書票が貼られているが、この蔵書票のデザインは、イングランドで最初の印刷業者であるウィリアム・キャクストンのプリンターズ・マークを模している。このような蔵書票からも、イギリスの音楽を守り伝えようとしたカミングスの想いを感じ取ることができるだろう。

 このようにオークションによるコレクションの散逸を懸念していたカミングスであったが、彼の死後、カミングス当人のコレクションが競売にかけられてしまったことは、皮肉と言うほかない。カミングスの蔵書のオークションは、出品総数全1,744ロット、1917年5月17日から6日間にもわたって行われた。当時のイギリスのいくつかの音楽雑誌でもこのオークションの開催が報じられており、当時はイギリス留学からすでに帰国していた徳川頼貞も、その記事を読んだ一人であった。頼貞はオークションの開催を知ると、ただちに彼の留学時代の恩師エドワード・ネイラーに連絡をとり、競売には間に合わなかったものの、結果、約400点の入手に成功した。またこのときアメリカ議会図書館も59点を落手している。

 兼常清佐はこのコレクションが日本にもたらされた意義を次のように説明している。

この文庫〔カミングス・コレクション〕の意味は、正にそれが一つの博物館であるという処に存します。この文庫の価値は或る博物館の持つ価値であります。この文庫の日本への将来は、要するに私共がこの地に在っては決して見る事の出来ない大英博物館の一部分を、私共に紹介したという事であります。それが日本の学界と音楽界に貢献する処は必ず大なるものであろうと思います。[4]

兼常が、先述のカミングスの論文「国立音楽図書館の設立について」を知っていたかは定かではないが、「大英博物館の一部分を、私共に紹介した」という兼常の評価は、奇しくもカミングスが大英博物館内に国立音楽図書館を設立するよう求めていたこととも符合しており興味深い。

 ヨーロッパから遠く離れた日本で西洋音楽を研究するとき、研究者たちが直面する最大の問題は、研究対象となる原資料が日本に存在しないということであった。カミングス・コレクションが日本にもたらされたことは、わが国の西洋音楽研究の発展に大きく寄与した。南葵音楽文庫では、購入したカミングス・コレクションの目録[5]が作成されたほか、兼常清佐と辻荘一という二人の音楽学者によって先に引用した『南葵音楽図書館所蔵カミングス文庫に就て』も編纂された。同書は日本における西洋音楽資料解題目録の最初の試みである。さらに、カミングス・コレクションに含まれていたヘンデルの《グロリア・パトリ》の総譜を辻荘一が校訂した楽譜『Händel Gloria Patri』[6]は、校訂報告を伴う出版楽譜としては本邦最初期の例であり、戦前の日本における音楽資料研究の重要な成果であろう。

 慶應義塾大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構の音楽資源統合リポジトリー・プロジェクトは、南葵音楽文庫所蔵資料のデジタル化を進めてきた。今日、デジタル技術の発達に伴って様々な貴重資料がデジタル化されるようになり、それらのデータベースが公開・共有される潮流は留まるところを知らない。南葵音楽文庫が海外の貴重な音楽書や楽譜を蒐集していた大正から昭和初期と比べるなら、音楽資料をめぐる状況は大きく変わった。海外では、複数の図書館が連携して資料のデジタル化を進めることで、各所に分散して保存されているコレクションの全体像を再構成する試みもなされている。かつてカミングスの蔵書は、不幸にも所有者の意に反してオークションにかけられ、分割されてしまった。そのカミングス・コレクションが再び、デジタル空間にその全体像を浮かび上がらせる日が来ることを願ってやまない。

[1] 兼常清佐、辻荘一『南葵音楽図書館所蔵カミングス文庫に就て』(南葵音楽図書館、1926年)、1-2頁。
[2] William Hayman Cummings, Purcell (London, 1881). William Hayman Cummings, Handel (London. 1904).
[3] William Hayman Cummings, "The Formation of a National Musical Library," Proceedings of the Musical Association, 4th Sess. (1877-1878), pp. 13-26.
[4] 兼常、辻、前掲、9-10頁。
[5] Catalogue of the W. H. Cummings Collection in the Nanki Music Library. Nanki Music Library, 1925.
[6] 辻荘一編『Händel Gloria Patri』(南葵音楽図書館、1928年)。

音楽フロンティアみなと 再発見コンサート「麻布飯倉 南葵楽堂の記憶――カミングス・コレクションの至宝から」演奏会プログラム(主催:音楽フロンティアみなと 再発見コンサート実行委員会。JTアートホール アフィニス、2009年2月1日)、17-20頁。
転載にあたり、一部修正しました。