徳川頼貞のロンドン土産――南葵楽堂構想の由来

 「南葵楽堂」は、紀州徳川家第16代当主徳川頼貞(1892-1954)が麻布飯倉の自邸に建てた日本初のパイプオルガン付音楽ホールである。1918(大正7)年の設立以来、国内外の音楽家がそこで数々の演奏会を開いたが、1923(大正12)年の関東大震災で建物の一部に亀裂が入ったため使用不可能となり、その後も、徳川家の財政難によって修復は果たされぬまま、1931(昭和6)年に取り壊された。実質的な活動期間わずか5年という、まさに「幻の」音楽ホールである。

 徳川邸があったのは、現在の麻布台1丁目、飯倉片町の交差点の一角にあたり、その跡地には、港区立麻布小学校や麻布郵便局、外務省飯倉公館などが建っている。当時の住所では、東京市麻布区飯倉6丁目14番地という。商店が軒をつらねる虎ノ門や赤羽橋の賑わいから離れて、この一帯には江戸時代から武家屋敷が立ち並び、明治・大正になってもなお、家々の庭木が鬱蒼と生い茂る、森のように閑かな地域であったという。そのような場所に、この音楽の殿堂は造られたのである。

 南葵楽堂の落成は、イギリスの音楽雑誌『ミュージカル・タイムズ Musical Times』でも写真付きで報じられ[1]、「音楽のパトロン」としての頼貞の名を一躍世界に知らしめた。徳川頼貞とも親しかった音楽学者の遠藤宏は回想の中で、「大正年間から昭和の初期にかけて来朝した世界的名演奏家は、帝劇と徳川邸ヴィラ・エリザを頼ってやって来た」と述べている[2]。

 徳川頼貞は、幼少の頃に当時まだ珍しかった蓄音機で音楽に親しみ、学生時代には学友たちと音楽サークルやオーケストラを作ったりもした大の音楽好きであった。1913(大正2)年、彼は初めての外遊に赴く。シベリヤを経由し、ロシアで本場のオペラを観劇した頼貞は、イギリスで音楽の勉強を志してケンブリッジ大学への入学を果たす。その後、第一次大戦の激化した1916(大正5)年に帰国するまでの3年にわたって、彼はオペラ史研究で知られるデント Edward Joseph Dent(1876-1957)の下で音楽史を学ぶとともに、作曲家でありオルガニストとしても活躍していたネイラー Edward Woodall Naylor(1867-1934)に和声学とピアノを師事した。

 徳川頼貞が南葵楽堂の建設を構想したのは、こうして異国の地で音楽を学び、また社交界で様々な人と知り合う中でのことであった。

私はふと日本にも是非音楽堂がなければならないと思いついた。私もいずれは帰国することになるのである。その時、折角外国迄来て音楽を勉強したのであるから、その土産として帰朝の暁には、未だ東京に一つもない純粋の音楽堂を建てて見たいと、こう考えたのであった。
音楽堂の設計と共に、直ちに私の頭に浮かんだのは、その音楽堂に装置すべき、音楽堂として是非ともなければならないパイプ・オルガンであった。その頃日本にはパイプ・オルガンというものは一つも無かった。規模は小さくとも、名実共に理想的な音楽堂を建設したいというのが私の念頭である……。[3]

 イギリスで彼が出逢った2人の人物が、南葵楽堂を造る原動力になったと言えよう。その2人とは、当時新進の建築家であったブルメル・トーマス Alfred Brumwell Thomas(1868-1948)と、ケンブリッジ大学の恩師ネイラーである。

 トーマスと頼貞とは互いに音楽好きであったことから意気投合した間柄であり、頼貞が南葵楽堂建設の計画を話すと、トーマスはホールの設計を快諾した。しかし当時軍籍に身をおいていた彼は、第一次大戦のため、設計にすぐ着手することができず、日本に設計図が届いたのは、1917(大正6)年の秋であった。届いた図面は、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジのチャペルをモデルとし、座席数は310席。舞台にはパイプオルガンを備え付けられ、地下は図書室や陳列室に割り当てられるなど、頼貞の希望に沿う内容であったが、日本の立地条件を考慮して日本在住の建築家ヴォーリズ William Merrell Vories(1880-1964)による修正を経た上で着工に移された。

 南葵楽堂創設のもう1人の立役者であるネイラーは、ホール内に設置するパイプオルガンの製作を指揮するとともに、ホール付属図書館(後の南葵音楽図書館)に収蔵する書籍の蒐集にも協力した人物である。南葵楽堂のパイプオルガンは、ネイラーの紹介でリーズのアボット・スミス社に発注され、その内容や型式についてもネイラーが監督した。しかしこれもまた大戦のために部品の到着が遅れ、建造は1920(大正9)年のことであった。南葵楽堂では同年11月22日に竣工を記念する音楽会が催され、パイプ総数約1400本、鍵盤3段、ストップ36個という、当時東洋最大のこのオルガンは、聴衆に披露されたのであった。関東大震災後は東京音楽学校(現・東京藝術大学)に寄贈され、現在でも、上野公園内の奏楽堂で見ることができる。

 南葵楽堂はいわば徳川頼貞のイギリス留学の成果であった。日本におけるクラシック音楽の黎明期、山田耕筰をはじめとする近代日本の音楽の礎を築いた作曲家たちが、日本人にとっての洋楽のあり方を模索していたのとまさに時を同じくして、頼貞もまた海外で音楽を学び、彼なりの方法でわが国の音楽文化の発展に貢献しようとしたのである。洋楽が未だ十分には根付いていなかった大正期にあって、南葵楽堂という欧米にも遜色のない音楽ホールを築き上げた徳川頼貞の功績は、日本の洋楽受容史において特筆に値しよう。

[1] N [anonymous], "A Concert-Hall at Tokyo," The Musical Times, no. 912 
(1919), p. 82.
[2] 遠藤宏「「南葵文庫」音樂史話」『音樂』1948年6月号、31頁。
[3] 徳川頼貞『薈庭樂話』(春陽堂書店,1943年)72、74頁。

音楽フロンティアみなと 再発見コンサート「麻布飯倉 南葵楽堂の記憶」演奏会プログラム(主催:音楽フロンティアみなと 再発見コンサート実行委員会。JTアートホール アフィニス、2008年1月20日)、17-18頁。
転載にあたり、一部修正しました。