木戸敏郎、佐々木冬彦「正倉院楽器箜篌(くご)の復元と現代 2」 講義のまとめと感想

慶應義塾大学文学部JASRAC寄附講座「音楽と現代社会」2002年12月2日

 今回はエキサイティングな90分になりました。教室には2張の箜篌。そしてそれと関わりを持つ演出家、作曲家、演奏家、組紐研究家が寄附講座の教室に集まりました。

 講義は、ギリシャのパンフルートと正倉院の排簫(はいしょう)との比較から始まりました。パンフルートは、上から見ると管が弧を描いて配置されていますが、排簫は真直ぐに並んでいます。そのため、演奏の際、前者は演奏家が首を動かして吹くのに対し、後者は楽器の方を動かすことになり、速いパッセージの演奏が困難となります。また、前者では音高に応じて管の太さが違いますが、後者はどの管の口径も同じで、詰物の位置によって調律が変わります。一般に高い音は細い管の方が鳴り易く、低い音は太い管の方が鳴り易いので、排簫の構造では響きにムラが出てしまいます。こうして比べると、西洋音楽に馴染んだ感覚には、排簫が稚拙な楽器と映るかもしれません。事実、現在中国で一般に売られている排簫はパンフルートに近い形に改造されているそうです。しかし、様々な音要素を積極的に活用しようとする現代音楽において、調律に融通が利き、音のニュアンスの変化に富む排簫に注目する作曲家も少なからずいることを想起すると、排簫が劣った楽器だとは必ずしも言えないようです。木戸氏の言葉を借りれば、これは優劣の問題ではなく、楽器それぞれに独自の世界があるということなのです。

 同じことは箜篌にも言えます。正倉院の箜篌には、弦を糸巻で締める方式と組紐で締める方式があることは前回の解説のとおりですが、紐で弦を締めると、弦の緊張度が非常に弱く、しかも紐がダンパーになって大きな音が出ず、調律も狂いやすいとのことです。このような、ドレミに固定されない、西洋音楽の価値観からすれば「楽器以前」の音で、どのような音楽があり得るか、ということは、音楽の根源を探究する上で重要な問題でしょう。そして、音楽の根源がいかなるものであったかは、現在や未来における音楽の在り方とも関わってくることと思います。

 西洋音楽は自分の意にそぐわない余計な情報をノイズとして切り捨て、洗練された音楽を作ろうとしてきたが、そうして生まれてきた作品がどこか空々しいものになってはいないか、という木戸氏の問いかけには考えさせられました。古い楽器についての話題が現代音楽のアクチュアルな問題に直結する今回の講義は本当にエキサイティングでした。

http://www.flet.keio.ac.jp/kifu/jasrac/class/20021202.html 掲載(現在閉鎖)。