文学コンプレックス

わたしは幼稚園や小学校に通っているときから本を読むことが好きな子どもだった。

小中高のときは、もっぱら毎週末、区民図書館に通って本を読み漁っていた。「上限の5冊まで本を借りて、翌週返す」の繰り返し。本を読むことが本当に楽しくてワクワクした時代。今思い出しても、あの時ほどのワクワクや興奮をまた味わうことはないのではないかとエモーショナルになるほど夢中になって本の中に入り込んでいた。

今でも、本を読むことや本自体への好意はあり続けている。ただ、当時ほど本を読む時間が取れていなくて『本は好きなのに、実際はあまり読んでいない』という、人にその状況を話せば「それは、本当に好きっていえるのかな?」と思われてしまう状況に陥っている。

そんな状況なので、「好きなことは読書です!!!」と言いたくても言いにくい。すきなのにー、すきといいたいのにー、それほどでない現状ー

そんなわたしの読書コンプレックスをさらに突いてくるのが文学作品の存在だ。

夏目漱石やドストエフスキーなどの、いわゆる名作とされる文豪たちの手掛けた正統派な文学作品を嗜んできていないことが、読書コンプレックスとして私の心に、はびこっている。

本好き=現代文学はもちろん、そういった過去の文豪たちの名作も嗜んでいるとかっこいい という理想 is in my head.

そんなわたしのコンプレックスを少し軽くするために作られたのかと思ってしまうような、『文学作品の名作たちをそれぞれマンガ数ページに凝縮して、一冊にしました!』っていうコンセプトのマンガを読んだ。なんちゃって知識つけたかった。

でも、読んでもそれらの文学の良さはまだあまりわからなくて(例外は多少あり。あと、もともと芥川龍之介は好き)

まんが数ページにすると、全体のストーリー自体はわかるし、ストーリー自体に分かりやすい言いたいことや起承転結があると短縮版でもひとかけらくらいはその文学の良さがわかった気になる。(もちろんひとかけらだけど)

でもたとえば『人間失格』はストーリーの起承転結はほぼなく、ただただ主人公が絶望していくだけのもの。多分たいていの人はストーリーだけを知ると(そっか、なにが面白いんだろう)ってなる。はず。(決めつけてごめん)

きっと、こういったタイプの文学はストーリーの起承転結を楽しむというよりは、『人間失格』を読む時間を通して、人間の堕落した時の心理を追体験してみたり、そこから自分自身の人生を考えたり、そんな哲学的な繋がり方が主な魅力なのかなぁと感じた。

現在の小説についても、わたしはどうしても起承転結重視でストーリーや心理の追体験の方だけを楽しみがちだけど、読書の時間をとおして、自分と哲学的に向き合うようなタイプの文学も深い価値があるんだろうなぁということはわかった。

そんなことも頭にいれてこれから本選びをしていきたいなぁ

なんてことをいろいろ考えると、就職や興味の優先度から大学では化学を学んだけど、並行できたら文学や哲学も学んでみたかった

深い世界がありそうで気になる

もうわたしも20代後半だし、おそらく年齢に比例して広がっている心の余裕のキャパシティを生かして、文豪たちの文学をとおして自分と向き合っていくのも悪くないなぁと少し思ったおはなし

2020/4/29(水)23:59 プラリネと猫🐈