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日本が第二次世界大戦に突入した理由

 それは、教育勅語でも愛国心の強さでも日本軍の強大さでも何でもない。 大日本帝国憲法と官僚主導国家体制という根源的なところが原因。 ここで、近現代史をおさらいしながら詳しく見ていく。

(1)近現代史のおさらい


 明治維新後の日本は、官僚主導体制のプロイセンを元にして作られている。 当時、民主主義国家をつくろうにも、国力も足りないし、欧米列強に植民地化される恐れがあった。 そこで、大久保利通ら明治政府のトップは、官僚の権限を一時的に強め、国力を挙げたのちに、国会開設等を通じて、民主主義国家を打ち立てようと考えた。
 大久保自体は暗殺されたが、この路線は伊藤博文に、実際に大日本帝国憲法公布及び国会開設という形で受け継がれた。 ところが、大日本帝国憲法には大きな欠点があった。

(2)大日本帝国憲法の構造


 それは、首相による一元的なコントロールが効きにくいこと。 まず、各省の長からなる、国務大臣は首相ではなく、天皇に忠誠を誓うとされていた。 また、軍隊の指揮する権限=統帥権に関しては、首相の権限ではなく、天皇の権限であるとされた。 いわば、国家の長による軍隊の指揮権、シビリアンコントロールが全く効いていない状態である。
 この統帥権が天皇に属することはのちに、1930年のロンドン海軍条約の批准をめぐって大きな波乱を残す。

(3)軍部大臣現役武官制


 さらに、当時、官僚や軍部らの支持を一手に集める、山縣有朋が要職に。 彼は、政党政治は、暴走の恐れがあり、信用していなかった。 どちらかといえば官僚及び軍部より。 故に、政党には与しなかった。 そこで、軍部大臣現役武官制度という、陸軍及び海軍大臣(軍部大臣)は現役の大将および中将から出すこととし、軍部大臣が内閣を気に入らない場合、倒閣できるという、軍部の発言が極めて大きな制度が作られた。
 1913年には一旦は廃止はされるものの、結局は軍部大臣に現役の大将および中将以外が就くことはなく、1936年の広田弘毅内閣の元で再び復活をし、軍部の権限が大きくなっていく。

 いわば、明治期の日本は、 首相による軍隊および官僚のコントロールが効きにくいという、致命的な欠陥を抱えていた。
 明治初期〜中期の日本はそれでよかった。 明治維新期に欧米列強の強大な力を目の当たりにしていたため、指導者層も無闇な戦争は避けていた。 例えば、日露戦争開戦時も、終戦をいつにするか、どのように終わらせるかは最初に考えていた。 山縣有朋でさえ、軍部および官僚の権限を一手に担いながら、それを暴走させることはなかった。
 ところが、日露戦争および第一次世界大戦の勝利後は日本の上層部も慢心に陥り、明治初期の謙虚さは失われていく。 さらに、当時の物価高への不満、政党政治及び財閥の腐敗、それをマスコミが糾弾し、煽り、国民の間で軍部への期待が高まっていく。 結果的に、軍部の権限も大きくなり、戦争へと突入を果たしていくことになった。

(4)安易な「戦争反対」フレーズへの疑問


 戦争反対を掲げるのは大いに結構。 しかし、それを掲げるのであればなぜ日本が戦争を起こしたのか、当時の法律及び国家制度など、根源的な問題点を踏まえ、深く分析していく必要がある。
 愛国心、教育勅語、軍隊の存在。 どれも本質的な理由ではないし、それを利用して愛国心を持つことを否定するなら、単なる社会の害悪である。

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