ゴシップの主人公になった日。

いつも迷う。弁解をするべきか、そのまま飲み込むべきなのか。ゴシップの主人公に祭り上げられた時、皆様はどうしていらっしゃるのでしょうか。

私は多分人から誤解を受けやすいタイプで、最近も全く関与していない件で暗躍しているという噂を立てられた。その場所から身を引いてもう2ヶ月近くたつのだけれど、今日人づてに、とある人がまだ私が暗躍し、引き抜きみたいな事をしたと言っていたらしく、唖然としまして。

本当に関わってもいないし、その場所に行ってもいない。対面して話もしていないのにご苦労な事で。

このような件に引きずり込まれる時には決まって、自分を必死で正当化しようとする人がそこにいる。私は、その違和感にいち早く気づいてしまうタイプなので、その人たちからしてみると作り上げられた安全な世界の天敵なのだ。

根も葉も無いゴシップを流す人たちは決まって臆病でとても傷つきやすい。いつも怯え、自分の心に踏み込まれ否定される事を怖がっている。

その人たちは、自分がゴシップの主人公になるまいと他人を人柱にし、ゴシップの主人公に仕立て上げる。自分は正しいという安全な世界を作り上げる為に全力を捧げて言葉で塗り固める。

今回も私がその人柱になったわけで、いい大人が女子高生みたいな事でギャンギャン騒いでるなと、ただ漠然と対峙していた。

彼女はきっと、とても人生に臆病で嫌われる事を最大限に恐れている。それに気づいてもいないのかもしれない。

私だって臆病で、人に嫌われるのは怖いし、普通の人みたいにグループでキャッキャしてみたいっていう願望はある。でもだからといって、誰かをゴシップの人柱にして自分の味方を作ろうとは思わない。

弁解しない事で私は孤立を深めていくだけなのか。

ふと、そんな自虐的な考えがよぎったりもする。

村上春樹のノルウェイの森の中にある少女が出てくる。
彼女はとても嘘が上手く、人の心をいとも簡単に操作をする。彼女にゴシップの人柱にされてしまったレイコさんは世間の人は信じたい事しか信じない事をよく分かっていて、弁解もせずただ心を病んでいった。

ある時点で、中身の無いゴシップが本物に近い物語に入れ替わってしまう事がある。そこまで来てしまうと、人柱は生贄として流されてしまう事しか出来なくなる。諦めるしか無くなるのだ。

人は信じたいものしか信じないという浅はかさの犠牲。

メディアでは色々なゴシップが流れているけれど、そこにある真実を少しでも汲み取ろうとするだけで、虚構の物語は救われるのかもしれない。

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