おやゆびちーちゃん

あれは確か秩⽗の夜祭りを、瀬⽥貞⼆さん瀬川康男さんと、松居直さんの⾞に同乗して⾒にいった帰りに出た話です。名作を絵本化したものが無数に出版されているけれど、名作に対する真の理解と尊敬を払ったものは少ない、ことにあれほど細部にわたって克明に、それこそ眼に⾒えるように描写されているアンデルセンの作品が、絵本になると全く粗末で、作者の指定がほとんど守られていない(細部がアンデルセンの物語にとって⾮常に重要なのにもかかわらず)という不満でした。

殊に知らぬ者とてないほどの「親指姫」がいちばんひどいのです。⼀つは指定されている「親指」の⼨法がめちゃくちゃです。本当はつばめの⽻のやわらかな⽑の中に隠れてしまうほどなのに、ほとんどがつばめが落ちそうなくらい⼤きくて、しかも勇ましくつばめにまたがっているのまであるほどです。「親指」ほどしかない⼩さな者の境遇を、アンデルセンといっしょに同情したことがなかった、というまさに証拠ではありませんか。

それに、アンデルセンがほんとに書きたかったこと ー なぜ「親指」が幸福になれたのかという理由(アンデルセンの作品にハッピーエンドが少ないということを思い出してください)。それは「親指」がだれよりも美しい⼼の持ち主だったからなのですが、多くの改作、ダイジェストは「親指」の容姿が美しかったからということになっています。「親指」はこがね⾍のお嫁さんになってもいいと思っていたのに、こがね⾍の親族たちに、何てみにくい⾍だろうと反対されたのです(いいえ、ほんとはとても美しい娘でしたのに、とアンデルセンは語っていますが「親指」はそれを⾃分では知らないのです)。もぐらの家からの脱出は、もぐらとの世界観の違いをさとったからで、「親指」にはもぐらへの憎しみ

はなく、もぐらも悪い⼈では決してないのです。神の時代と⼈間の時代との間に妖精たちの時代があり、「親指」は妖精であり、つばめは詩⼈の魂であるという、深い象徴は理解することが無理としても、⼩さい⼦どもにわからないことばは、⼀つもアンデルセンは書いていません。つまり改作、ダイジェストの必要は全くないのです。

それでは、絵をつけなければわからないということもないのだから、絵の必要があるか? ということになりますが、アンデルセン⾃⾝、⼩さな⼦どもたちがイラストレーションにみちびかれて、お話の世界にはいっていける役割を深く知っていました。私たちはマーシャ・ブラウンが絵をつけたアンデルセンの『⽩⿃』という絵本が、それを証明したことを知っています。ブラウンの⾼い詩⼼がとらえたアンデルセンの世界の視覚化 ー たとえば⽩⿃ということば⼀つでも、⽩⿃を実際に⾒、更に⼈間の⻑い精神の歴史のなかで⾼められた⽩⿃というイメージは、グラフ写真か公園で⽩⿃を⾒たことしかない(それもあるかないかという)くらいの⼩さな⼦どもたちには、ことばだけで深く味わえと注⽂する⽅が無理です。

秩⽗旅⾏から2年たって『おやゆびちーちゃん』は本になりました。ぼくとして

は初めて、いくつもの⾊版を別々に描いて製版した、いわばHiFiの印刷で、細かいタッチがよく出た絵本です。

佐藤さとるさんが『おやゆびちーちゃん』を⾒て、「アンデルセンを読んで得たイメージを、⾃分で⼤切にしておきたいために、なるべく新しいさし絵というのを⾒たくないような気がしているのですが、この絵本はそれがこわされなかった」と⾔ってくれましたので、ぼくはホッとしました。名作の絵本化というのは、楽しくて実にきたえになるものです。 

「堀内誠一 ぼくの絵本美術館」マガジンハウス刊。「ぼくの絵本のための広告」の章より抜粋。

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