When I’m Sixty-Nine

When I'm Sixty-Nine  私が69歳になっても

はじめに

七十歳を目前に控え、自己史を記しておきたいという思いが湧いた。還暦から70歳までの十年間と誕生した0歳から10歳までの十年間を時系列で較べ、自己対話する形式で物語を書けたら面白いかも知れない。還暦とは赤ちゃん誕生時に戻るとの教えに因んで、検証してみたい。
過去を振り返る際、記憶のディーテールが加齢と共に薄らぎ、剥落する可能性は大いにあるが未だに胸中に記憶の残滓が存在する。但し、過去を美化したり、叙情に流され、飾り立てることを極力しない様予め、自ら戒めとしたい。まずは2021年2月27日の70歳を前に、序章として我が人生のターニングポイントとなった18歳の頃、30歳代、50歳代をピックアップし、12月27日、1月27日、2月27日に投稿をしたいと考えている。本来、日記さえ余り書かない筆不精三昧。筆力の無さが自己嫌悪の一つだ。拙い文章と成るがご容赦願いたい。

追憶の1969年

 18歳を迎える1969年(昭和44年)の新年は慌しかったに違いない。大学受験の不安が心中を占めていたのだろう。細かい経過は記憶に無い。理系の国立一校、私立二校を受験した。不安な面持ちで島を出て、受験会場の都市に行った。結果は散々だったが思いがけず千葉工大一校のみ合格通知が来た。今でも、合格通知の封を切る微かな興奮と読後の安堵を覚えている。これで島を出て、新たに都会でダムや橋を造る土木技師の夢を実現する一歩を踏み出せると思った。
高校生活は入学以来3年生の春までラグビーの部活動一筋で卒業式の記憶も残っていない。同級の友人の進路、就職先、進学先も何一つ不明だった。そして三月、乗船し、佐世保港に着いた。佐世保には短い交際ではあったが隣の島U島のU内K子さんの就職先があった。寄って話して行きたい気持ちはあったが会いに行けなかった。卒業前にU島に遊びに行き、近くの大浜海岸の砂浜を散歩した思い出だけが残った。砂と共に消えた淡い恋だった。少し未練を抱え、米軍放出品と海産物店が並ぶ通りを歩き、佐世保駅から博多へと向かった。博多では友人I角の実家が渡辺通りにあるのでおばさんに挨拶がてら訪ねた。同級生の溜り場でみんなとそこで落ち合った。同級女子と大濠公園を散歩したりした朧な記憶もある。又、夏に帰省して島で会おうと声を交わし、博多駅から夜行列車で東京へ向かった。

今、思えば東京駅に同じ大学で一年先輩の同郷のH田Tさんが迎えに来ていたかも知れない。山手線秋葉原乗換え、総武線西船橋駅で下車し下宿先に着いた。
そして、入学式の津田沼駅で不要な学帽を買わされた。土木科クラスは100名程いて、全国各地からきていた。いつも授業で隣に座る千葉茂原出身のO高君と最初に友人となった。休日には島の同級生や知人、先輩を訪ねて、新宿、銀座などの都内に出かけた。そうした中で入院中だった同級のT君が亡くなったとの訃報を聞いた。お母さんが島の映画館に住み込みで働いていた。小学生時代から割りと仲がよく、遊びに行って映写室からよく映画を見せてもらった。後に墓のある久賀島まで行き、彼の墓前に線香を供えた。
五月の連休は千葉の館山のホテルに就職したF田T美雄君の所でゴルフ場でもアルバイトをした。大学も夏休みを迎えて、静岡の蒲原にある国道一号線バイパスの工事現場で土木工事のアルバイトで同級のM田Y豊君の兄さんが現場監督だった。盆前に終わり独りで富士山登頂をめざし、
頂上に立った。下山して、神戸・灘生協に就職した同級生のNY信君を訪ね、三宮など見物し、
彼の寮に泊めてもらった。翌朝、フェリーに乗り、瀬戸内海から別府に着いた。電車で博多を経由して佐世保から帰省した。島では同じく同級生とキャンプしたり、楽しく過ごした。

大学も休み明けとなり、講義が始まりクラスの友人とも再会した。全国の大学、高校で学園闘争が
拡がりを見せていた。大学管理法が国会に上程され、学問の自由を奪い、大学自治の破壊に反対するデモ、集会が連日、繰り広げられ自分も友人達と参加して、機動隊の暴力的規制に怒りを覚えた。キャンパスでも体育会右翼の妨害に抗して連日、集会・デモがあり、参加人数は増えていった。クラス討論、試験ボイコットの闘争へと発展し、各クラス闘争委、千葉工大全共闘が結成され、参加者も多かった。自分も参加した長蛇の学園デモがあっとゆう間に本館に突入し、バリケード封鎖を行った。土木科の友人A君、S君等も一緒だった。夜を徹して篭城し、大学当局と対峙した。しかし権力が介入したら、簡単に破壊されると判断し、全共闘は本館を出て、都内のH大へと撤収した。

全国各地の大学でバリケード封鎖の戦術で国家権力=機動隊の強権的介入に対して戦われた。もはや学内の戦いでは収まらず街頭での国家権力との直接対峙に打って出なければとの考えに至った。
そして、10月21日国際反戦デーに初めて党派の隊列に加わり、地下鉄東西線で高田馬場駅から新宿東口広場向かったが途中の駅で官憲によって阻止され、逮捕者を出した。さらに権力への怒り、ベトナム反戦への戦いは高まり、ついに11月決戦へと登り詰め、ベトナム戦争参戦国化・佐藤首相訪米阻止するため、蒲田に集結する
ため軍団として決起。11月16日首都は戒厳令と化し、数万の機動隊が動員された。両親へ決意の手紙を送り、決死の逮捕覚悟で鉄道で八高線で蒲田に合流する戦術だった。しかし、途中の電車内で凶器準備集合罪で検束・逮捕され、八王子署に拘留される結果となった。逮捕者で満杯の留置所での取調べには黙秘で応対し、獄中の人達と交流、同じ考えを持つ様々な仲間と出会うことができた。貴重な体験だった。救対より20歳未満の少年なので起訴されないから名前、年齢、住所はで明かしても良いのではとのことで取り調べで答えた。結果、少年院保護観察処分で拘留期限一杯の12月中旬に留置場から釈放された。房の人達が別れにインターナショナルを合唱して見送ってくれた。八王子駅から電車で渋谷に出て、ジャズ喫茶オスカーで珈琲を飲み、煙草を吸った。
ビートルズのLPアビーロードの一曲ビコーズが流れていた。
♪Because the sky is blue.It makes cry......Because the sky is blue♪♪

ドアを開け、そこを出ると頭上には解放された青い空がひろがっていた。

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