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トウモロウ ネバー ノウズ

WHEN I Sixty-Four 3rd Issue トウモロウ ネバー ノウズ

母、父との死別を過ぎて
2000年代 50歳の頃

 母の入院している福岡の病院を妻と見舞ってから車での帰路、日田・大石峠にさしかかると運転する車中から月が見えた。晩秋の夜空に雲の動きで見え隠れする円い月を見ながら、母の生も終わろうとしているとその時思った。母の亡くなる一ヶ月前の事だった。
  父が二年前に突然、くも膜下出血で倒れ、緊急入院し、島の実家で独り暮らしは困難となり、養護老人ホームY荘にショートステイしていた頃、仕事合間に里帰りし、Y荘を訪ねた。母は少し、はにかみ風に「来たつか」とのやさしい声。元気な様子であった。家族の誰かが帰って来ないかといつも空けていたという海の見える東側の窓。その窓から見える船の入出港を見ながら、母は何をおもったのだろう。又、家族で正月帰省し、帰宅した母と実家で過ごした。認知症が大分、進んでいたのか独りで家を出て、夜の港を徘徊し、歩き回りその後を付いてまわったりした。
 そして八月、盆前に父の入院する福岡の病院隣の施設に移った。入居している方々の中でも、母は一番若い方で何よりも身体が元気だった。認知症の症状はそんなに酷くは無かったが訪ねると「父ちゃんがあそこからオーイと呼びかけたよ」と隣の病院の窓を指差した。その程度の願望も入り混じった妄想を喋ったりした。「父に会いに行こう」と言うとはにかんで「あとでよかよ」しばらくして「父ちゃんは何処に居るとか?隣やろ?」「ここは何処か?」又、別の日に「今日は天気もいいし、隣に歩いていこや?」というと「ならそうしようかね」と父の入院する隣の病院まで50メートル程のきつい坂道を3人でゆっくりと登って行ったこともあった。しかし、血液学の医者から、骨髄異形性症候群の診断が下された。検査、点滴治療が転院して続けられた。
 その一ヶ月の間、母は昔の思い出を語るときが一番、痛みを忘れて楽しそうだった。よく喋った。島を出て、佐世保の縫製学校で寮生活を送った女学生時代。授業中に突然、島に帰りなさいと言われ、笛吹の港から先小路迄歩いてきて、家の前に駆け足で着いた途端、家の前に忌の張り紙を見て、思わず、息を飲み込み脚が止まった。びっくりして頭の中が真っ白くなり、声にならない。ただ、胸の奥から「死んだ!事故で義父が。あの優しかった船長の義父が・・・・」とやっとでたのは嗚咽になり、啜り泣きで怖く家にも入れず玄関の外に立ち尽くしていた。近所の人が「ナヲ、なんばしよっとか。はよ入って父ちゃんの顔をみねば」と言われ、恐る恐る家の中に入ると母がこっちを向いて「こっちに来なさい」といっている気がした。次から次と涙が溢れてきた。そして母の膝に伏せて泣きながら放心の体であった。母が背中をさすってくれた。そのうち頭の中を数ヶ月前の事が浮かんだ。「ナヲ、いおばもっちきたけどとりにけえーよ」と島から佐世保まで鮮魚運搬してきた義父の声だった。学校の先生方もその魚を楽しみにしていたと。そんな思い出話を語った。島での暮し、和裁の仕事、仲の良い同級生の話など尽きることはなかった。人は過去の時間を遡りながら、老いてゆく。母がしゃべった80年間の中での記憶の断片を集め記録を残したいと切に思った。
 しかし、時間は止まらない。亡くなる数日前の母の病室を見舞った時、痛みに苦しむ母は「おいでここに。一緒に寝よう」と呟いた。
死期を悟った母の不安から出た言葉か?幼児の頃の息子を思い起こし最後の愛情表現だったのか?どのような返事をしたか不明だが今でもその言葉は脳裏に張り付いたままだ。2004年11月26日、母は80歳の生涯を閉じた。私の53歳の時だった。

 それは思いのよらぬ突然の出来事であった。「父が突然倒れ、意識も無い危険な状態なので至急帰って来てくれ」と島の親戚から仕事中の事務所に電話があった。2002年10月8日の昼過ぎの事だった。福岡の姉達と連絡を取り、自宅に戻り、妻と子供達と車で中津から佐世保まで走った。高速出口で皆と落ち合い、島への渡海船をチャーターし、夜の帳が下りた早岐付近から島に向かった。島の港に接岸し、直ぐに診療所病室に皆で入った。父はベッドに横たわっていた。呼びかけに反応も無かった。担当医師より、瞳孔が開きかけており、今晩が生死の山場かもしれないとの説明があった。病室は重苦しい雰囲気で涙を啜る音さえ聞こえてきた。自宅にいる母も事態が掌握できず、理解できていない様なので、私だけを残し皆、実家に帰った。病室で絶えず、声を掛け、手足指の末端に触り、覚醒させようとした。暗い病室の天井と壁に死神がへばりついて見下ろしている気がした。
そこを見上げ睨み「死なせてたまるか」との必死の思いだった。朝を迎え、子供達がやってきて同じように呼びかけ、触れたりした。そのせいか「じいちゃん、脚が動いたよ!」と子供の声に不思議に反応したのだ。医者に報告すると検診して意識回復を確認できた。手術が可能になったとの判断で役場に連絡して、Y田町長も来て、自衛隊の緊急ヘリで大村の国立医療センターに緊急搬送することが決まった。 しばらくして空港にヘリが到着して、私独り付き添いで同乗し大村の自衛隊基地に着陸。国立医療センターに救急車で運び込まれ、ICUで検査の後、くも膜下出血で脳を圧迫しているので頭部を切開する脳外科手術が始まった。待合室で待つこと数時間、若き医師達のチームのおかげで命をとり止め、手術は成功。頭に未だ血が残り、パイプで外に出している。言語障害が残るかも知れないと術後の説明があった。
父はI CUで数週間過ごし、我々もI CUで面会できるようにもなった。その後、病室へと移り、言語障害が残り会話はできないが、視覚も正常で、ベッドで食事もとれる程に回復した。しばらくして歩行のリハビリも行うようになってきた。季節は秋から冬へと移り、年末、正月そして春を迎えようとしていた。
 姉弟で患者身内用の部屋を借りて交代で病床の父に付き添った。病院から後はリハビリだけといわれ、転院を奨められ、佐世保、福岡の病院に転院をした。食事はできるが言葉を発する事は時間が経過してもできなかった。

私は高校卒業の頃まで父とは余り会話することはなかった。進学のため島を去る前夜に父から「お前とは今、話せなかったら一生話せないかも知れない」と言われ、少し会話をした程度で何を話したのか記憶に残っていない。幼年時代で父との思い出が残っているのは旧い大きな荷物用自転車で副業の商店用紙袋を積んで坂を登り、隣の村にある商店まで一緒に運び、販売納品した記憶位だ。

 父は戦地中国より復員し、戦後直ぐに農協の前身である農会に職を得た。農協に変った職場に子供の頃、遊びに行った事もある。残された写真を見ても和気藹々の職場で島内の農家の方と親しく交流した様だ。
 仕事の傍ら、傷痍軍人として中国・旅順で療養中に俳句に親しみ、帰郷した後も島でも俳句を詠み、白凪句会にも会員として積極的に活動をした。町報誌にも掲載された。俳句創作への熱意は倦むことなく続いていく。勤める農協も合併し変質してゆく事に嫌気をさしてか定年前に退職した。以後、畑を耕し俳句づくりに精を出し、島を出て、福岡の団地の一室を借りて、市内の俳句結社に入り、活動したようだ。 盆帰省した際、生前の父に俳句の句集を出版しないかと奨めたが「滅相も無い。そんなのせんでよか!」と即答された。
このように目立たず控えめの性格を持ち、一偏の凡夫として生きる事をモットーとした。父の幼青年時代が極貧生活だった影響があるのかも知れないなと推測したりもする。その窮状を詠んだ父の短歌数首を見たことがある。

父は病気療養中にも、句意を抱き、発句しようと口にも出来ず、筆でも書けず沈思黙考していたのではないか?
そんな思いから、父の死後、一周忌に遺句集を編んで、親戚知人友人に配布した。
父が昔、詠んだ俳句から最近のチラシ裏で作った短冊に書かれた夥しい句群を整理し、知り合いの俳人にも選句してもらい、原稿を作成した。句集名は「色鳥」とした。療養中に父との会話で「今一番したいことは?」と問うと微かな声で「山の中で鳥の声を聞き、熱いお茶を飲みたい」と答えた。確かに父の遺した句の中で畑仕事と鳥に拘わるものが多かった。「色鳥の白衣洗ふを見てをりし」や「荷を負ひてより色鳥のちちと鳴く」の細やかな描写の父の句である。父は余生を俳句に没頭していくことを希み、百歳まで生きることを欲した。しかし、その願いは叶わなかった。
2006年、くも膜下出血発症から四年後八十五歳で永眠した。母の死より二年後のことだった。

人は誰でも人生の中、親との別れに遭遇するが、50歳になったばかりの時期に一年を挟んで両親を喪うことは衝撃であった。それまで、仕事と家庭の事だけにひたすら邁進した。だから、親の末期の対応まで全く想定していなかった。自分の人生でこういうことがあるのだと痛感したのだ。結婚以来、十数年毎夏、家族で島の実家に盆帰省し、墓参りは欠かさなかった。同級の友に会うことも楽しみだったが両親と自分の家族で囲む夕餉は和やかなものだった。両親の年齢も把握せず、揃って健康で問題はないと思っていた。
 80年~90年代、仕事は順調に右肩上がりに推移した。新たにインドの結婚式にも参加したY社長の要請でアパレル業界の販売代行にも進出、佐世保と佐賀に4店舗を展開した。業務は多忙を極めた。父が倒れる1年前の2001年には、アメリカ在住の妻の従兄弟の結婚式に招待され、家族で米国南部ミシシッピに旅行した。又、地元でライオンズクラブに所属し、三役として例会、催事、交流に精をだした。そういう状況が続く中で突然、両親が倒れ、緊急入院する事態となったのだ。
 しかし、ビジネス、家庭よりも親の看病を優先させ、中津から週一度は佐世保、大村、福岡の病院に面会に妻とともに向かった。親を看取ることは生を受けた息子として当然の行為と思った。妻の育ったインド社会の同族尊重・家族主義の考えからも影響を受けたかも知れない。でも、事態はそう簡単にきれい事だけではなかった。インドとは違う親を看護する姉妹との家族間の不和があった。親の入院中より感情の行き違いから対立となり、お互いを非難することもあった。姉は入院先を変更し、自分達の住む福岡に近い病院、施設に転院させたりもした。彼女達の思いの根底には都会の利便さ、華やかさに伴う価値観、経済的尺度があり、故郷の自らが育った過疎の島への忌諱や侮蔑があるのではと邪推した。島を出て、都市に住むことで何故に人間観、死生観の変質が起こったのか自問自答した。兄妹間の不和は両親の死後も続き、遺産相続の呼びかけも拒まれ、家庭裁判所の調停を仰ぎ、父の死後、七年の時間をかけて解決にいたった。
 唐突だが、前衛芸術家マルセル・デュシャーンのパリの墓碑に「されど、死ぬのはいつも他人」と書かれているという。死は死んだ本人自らのものでなく、生きている他人が所有していると。まさしくと首肯せざるをえなかった。


自らは両親の喪と遭遇する中、仏教と俳句に出会い、興味を深めていった。特に檀家である臨済宗の禅寺に参禅し、自宅では父母の他界後毎朝、般若心経、観音経を唱えている。島俳句、花園俳壇にも毎月、投句している。
「十薬や生は偶然、死は必然 月歩句」
自らの生と死をつらつら考えながら詠んだ句だ。
Tommrou Never Knowsビートルズアルバムリボルバー
So play the game “existence” to the end of the beginning of the beginning
存在というゲームが終わりになる
そして始まる そして始まる
2021年2月27日古希を迎えて(完)

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