粛々と運針を観ながらふと思い出した話
粛々と運針はざっくり言えば、いのちの話。
これからうまれてくるであろういのち、これから終わりゆくであろういのち、この2軸なんだけど、
この2つの軸は交わることなく独立していたはずなのに、気がつくと絡み合っている。
"いのち"というのは人のいのちだけに限定していない。
この舞台を初めて観たときにふと思い出した話があった。
大学生のころ、留学生のクラスメイトに生け花を習っていると話したとき、
『生け花って全然"生きて"ないよね、死んでるじゃん。切られちゃってるし。』
と問われたことがあった。
日本語を学んでいる最中の、とても素直な疑問で、意見だと思う。
でもわたしはそのまっさらなほどに素直な質問にひどくショックを受けてしまった。
当時、日本語を専攻していたけどうまく説明できずに終わった。
(生け花の"生け"は生きているの意では無く"生かす"なので花を生かす、といったところかな?
"生花"ならば、生きている花の総称になるようです)
切られてるからと死んでるなぁなんて思ったこともなかったし、
お水につけてきれいに飾っているのにな。
枯れていない限り、生きてるのになと思った。
でも留学生も間違ったことを言っているわけではない。
わたしの解釈も人からしたら異なるものかもしれない。
枯れてても生きてるよって人もいるかもしれない。
"いきる"という解釈も人さまざまなのかもしれない。
いつから"いのち"でいつまで"いのち"なのか。
だから劇中の人物たちもあれだけ衝突していたわけで。
途方もない...。
加藤さんがこの話は宇宙の話とも言っていたのが自分なりに少し咀嚼できた気がした。
余談だけど日本語を専攻していた身としてはチクチク、チクタク、という音に着眼したシーンがとても好きでした。