60点をお出しする勇気

 これ、もしかしたら、ちょっと珍しいかも、なんて。

中の人は、プライドが高い。

 これは、自分でも結構早い段階で自覚した特性だった。
 私は、こう見えて、……とは、言えない。多分、普通に見えている通り、プライドが高いのである。
 もうちょっと柔らかい言葉を使うと、いいかっこしい、である。受験とかは結構このメンタルでやっていた。自分で言っちゃうけどそこそこ「頭がいい」って言われながら生きてきた子どもだったから、そんなの、落ちたらかっこわるいじゃん、って。みんなの前で良い顔するために、私、外せないよねえって。いつもそうやって割と生きている。
 これが世間的に良いかどうかは置いておいて、このプライドは、悪くないところだなと、なんならそれで頑張れるならそれでいいかと思っている。

 でもそんなにかっこよくないんだあ。どっちかって言うと戦闘民族なんだ。負けず嫌いなんだわね。自分よりすごい人って世の中にいっぱいいて、そう言うのを見るたびに、「うわ~~~~!!! なんだあれ!!!! 負けねえ~~~~~~!!!」と拳を握っちゃうんだ。

 どうしてこうなっちゃったんだろう。

 これが分かりやすい例として、野菜は発表とかプレゼンの後の質疑応答のことを「戦い」だと思っている節がある。黙ったら負けなの。言いよどんだら、それはもう、負けなの。
 誰だって負けたくはない。
 だから頑張るし、何が何でも仕込んでいくのである。でも大体想定してない質問とか指摘が来るから、でも黙らないように戦うんだよねえ。
 ……だから戦いじゃないんだって。

「なんかこう、分かりませんでした~!」って

 ところがどっこい、今日、ちょっと面白いことを言われた。

(資料を作っている後輩に対して)
野菜「なんかねえ、無理に全部結論出そうとしなくていいと思うよ。めちゃくちゃ頑張って、調べて、でも分からなかったら、『ここまでやって分かりませんでした~!』って書いちゃえばいいし、言っちゃえばいいんだよ」
トッモ「野菜さんそれやりがちだよね」
野菜「……確かに自分ちょいちょいやるけどそんな『やりがち』ってほどやってるマ?」
トッモ「うん」

 なんだか癖を見抜かれたようでいたたまれなくなっている野菜を気にも留めず、その人は二の句を紡ぐ。

トッモ「でも野菜さんはマジでやるだけやりつくして言ってくるからこっちも考えがいがあって楽しいよ。多分貴方、あれこれ情報揃えて考えすぎて分からなくなるタイプだろうし」
野菜「ぐうの音も出ねえ」

 褒められた、と思っておくことにする(本当にそうかな?)。
 これら、最後の言葉にぐうの音も出ねえことは置いておいて、野菜はこの一連の流れにこう返したのである。

「まあ私、人より諦める勇気があるから。60点70点ぐらいで人前にお出しする勇気があるから」

 ……と。
 トッモには「なんだそれw」と軽快に笑い飛ばされたが、自分では、結構面白いことを言ったな、と思っている。
 だって、私は前述のとおりプライドが高いのだ。なのに、未完成をお出しして、指摘質問改善案を食らって傷を負うことは特に厭わないらしい。
 思えば結構そんな感じである。だって創作小説を人に読んでもらって、面と向かって講評されるような環境に進んで飛び込んでいった人間である(ちなみにこれはあんまり平気じゃない。普通に怖い)

 そう言えば、最近、この界隈でもそういう話をした。「ラフのまま出す勇気」である。「野菜はもうあの、絵をラフのまま出す勇気があるから」って言った。多分これも上の例とそう変わらないのである。
 ……まあ、やりつくした60点と、単なる進捗6割は全然話が違うのは分かっている。後者は割と怠慢だ。てへ。

出来ない顔をしておきたい

 ちなみに上のようなとき、出来ないときは、最初に「出来ない!」って言ってしまう。こうやって事前にダメージを少しでも軽くしておいて、ケガを軽減するのだ。頑張ったよ、でも出来なかったの。だから甘く見てね、成果は褒めてね、って。
 ……う~ん、まあまあいい性格をしている。

特にオチはない

 日常垢だから。オチのない話はするな、なんて教えもあるけれど、ここではそれくらいいいじゃないって。制約とか、課さないくらいでさ。
 まあ多分私はこれからも、60点を出すことを躊躇わない。最終的に100点にできるのならどんな手段だって使うし、どんな恥だって掻いていい。最後に私が満足するために、使えるものは使えるだけ使うのだ。私も貴方も含めてね。
 最初から100点である必要性があることなんて、そうないと思うのだ。

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