23年12月から、24年3月への変化

はじめに


 下記の文章は、宝塚歌劇団団員の方のご逝去、またそれに対する歌劇団の対応等について、昨年12月頃に書いたものです。今回、ようやく12月時点で自分が歌劇に対して抱えていた大きな大きな不安と疑念が少しだけ小さくなったので、少し加筆してここに残します。自分の思考の整理と「ずっと見ていますよ、考えていますよ」と劇団と世に(世に?)提示しておくことが主な目的で書き出したものであること、また自分のメンタル維持のため、もしご意見等を頂いても返信はしません。

 まずご遺族の方へ、心よりお悔やみを申し上げます。絶対にあってはならない、取り返しのつかないことが起きてしまったことがあの日からずっと悲しく、苦しく、一ファンである自分も、劇団員の方々の多忙さを何となく分かっていながら無批判にそれを見てきたことに忸怩たる思いでいます。そして未だに、自分が歌劇に対してどのような態度を取るべきなのか、答えは出し切れていません。今後もずっと考え続けます。

※整理のための文章なのでここから語尾が変わります。しつこいですが23年12月時点の記述です。現在(24年3月)とは認識が変わっている箇所も多くあります。

バイアスについて

 まず大前提として、現時点(※23年12月)で分かっている事実は、大きく分けて
・団員の方が亡くなられた
・長時間労働があった
の2点だけだ。

 双方で見解の一致していない事柄について、「もしこれが真実だったら」と仮定で外野が議論をすることはとても危険だ。「なるほどこれならすべての辻褄が合う。これこそが真実だ」「これでは辻褄が合わない。これは偽の情報だ」と、情報の真偽の確認を放棄して自分の信じたいことだけをひたすら信じてしまうということが、「確証バイアス」のはたらきによって人間誰にでも起こり得るからだ。

 同じような不確かさの情報でも、自分の信じたい道筋に都合の良い情報は真実のように感じられ、逆に都合の悪い情報は間違いもしくは過小なものだと評価してしまう傾向のことを、「確証バイアス」と言う。
 今、自分のこれまでの認識や信じたい道筋にうまく当て嵌まる情報だけを信じ、拡散し、その他は虚構、或いは取るに足らないことだと批判し、それがどんどん先鋭化してしまっている人を複数見かける。歌劇団を攻撃するようなことを言う人にも、擁護するようなことを言う人にも、等しく確証バイアスの影響を感じる。勿論それに自覚的で気をつけつつ発言していらっしゃるのだろうなと思われる人たちも多い。少なくとも私のTLでは圧倒的多数だ。

 しかし私も例外なくあらゆるバイアスに捉われている。これらを完全に無くして言葉を発するのは恐らく人間である以上ほぼ無理なので、今の段階では
・真偽の分かっていない、また今となっては確認の出来ない事柄などについて「分からない」状態を受け入れる
・「劇団側とご遺族側で内容が一致した情報」以外の「情報」は基本的にその事実を確認しようがない(どんな内容の情報であれ等しく信頼性がない)ことを忘れない
・自分の信じる道筋を補強したいが為に、個人的に「信じたい情報」と「信じたくない情報」のどちらに対しても、迂闊に断定的な発言をしたり拡散したりしないよう努める
上記3点について、とにかく気をつけねばと思っている。
 なのでここでは、現時点でご遺族と劇団側で見解が一致していないことについては触れない。

パワハラと「空気」

 ここでの「パワハラ」の話はあくまで、現時点で双方で(時間数の差はあるものの)「事実だった」と認識されている、「長時間労働があった」ことについてのみの話である。
 その他の「パワハラ」については、私は憶測を交えて論ずるにはリスクがありすぎる(誰かを傷付けたり、誰かの行動に影響を及ぼさないとは言い切れない)と考える為、ここでは触れない。

 不祥事関連本を読むと、「不祥事を誰か一人が突然始めるパターンはそう多くなく(勿論ゼロではない)、多くの不祥事は組織の「空気」により生み出される。それらは誰か一人の「悪人」の指示のもとで画一的に行われるものというより、"皆がそれぞれに「こうなったらまずいよね」ということを避ける為にそれぞれが空気を読むことにより組織内の「常識」に歪みが生じ、その歪みが限界に達した時に致命的な事態に陥る"というパターンが日本企業では大半である」といったことが書いてある。パワハラ(しつこいがここでは長時間労働を指す)にも、これとやや同じ傾向があるようだ。
 こういった「空気」は、どの企業でも一定程度ある。そして組織の中にいながら、この「空気」を改めて意識し変革することは、非常に難しい。
 「空気」に対して異を唱えることは、まず自分にもその空気の一端を担ってきた責任があることを認めねばならず、また意を唱えることで全員を満遍なく敵に回すことになる。更に「空気を変えようとした」際、その過渡期などに何らかの構造的問題が生じた時に「この人が空気を変えようとしたせい」と追求されて組織の中での自らの立場を危うくする可能性があるからだ。だからこれらの把握と改善は、根本的に組織上層部の担うべき仕事である。

 劇団の長時間労働の常態化も、誰か一人が「やれ!」と言って突如始まったのではなく、
・素晴らしい舞台を作るためにはどうしたら良いか
・現場を円滑に回すにはどうしたら良いか
・危険な舞台装置を運用する上で安全管理を徹底するにはどうしたら良いか
等を個々が考え、「空気」を読み続けた結果、
・技芸の研鑽のために寸暇を惜しんでお稽古に励み
・新人公演の各種調整業務を出演者が担うことで調整→伝達の人数と工程を減らし、更にそれを「自己研鑽の機会」とし
・時には長い時間を使っての指導
等を行ってきたのだと思う。

 そこにどんなに悪気が無くても、舞台や相手への愛情や責任感故でも、慣習として長年続いて来たことでも、労働基準法を逸脱する働き方の肯定・推奨(あって当然とする態度を取ることも含む)、過重労働が推測される状態で業務を続けさせること、長時間に亘り指導を行うこと等は、その行為単体でパワハラに認定され得る。

 パワハラの認定に「それが為されるまでの文脈」は殆ど関係ない。受け手の受け取り方も、あまり関係ない(※セクハラは関係ある)。パワハラには下記の3つをすべて満たすもの、という基準があるからだ。

①優越的な関係にもとづいて行われること
②業務の適正な範囲を超えて行われること
③身体的もしくは精神的な苦痛を与えること、または就業環境を害すること
(厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/content/11909500/000366276.pdf)

 歌劇団において、長時間労働が生じざるを得ない状態について「それは不適切ですよ」と指摘し得るシステムは存在していなかったようである。過重労働が発生しやすい環境であると分かっていながら、「この業界はそういうもの」として、労働環境改善のためのシステムを構築してこなかった経営層の管理責任は非常に重い。
 長時間労働についての事実確認とご遺族の方々への謝罪はある程度出来ているようなので、今後は人員/労務/勤怠管理体制やスケジュールが見直され、参加者一人ひとりが何らかのアウトプット(参加者同士の意見交換やロープレ等)を行う実践形式でのコンプライアンス研修など、組織全体の意識と環境の底上げが実質的に為され、またそれがステークホルダーに可能な範囲で都度開示され、観客が安心して舞台を観られるようになる事を心から願っている。

劇団のここまでの対応について

 ご遺族の方が(例え「空気」によって醸成され個人での回避は困難な実情ゆえだったとしても)、パワハラに該当する行為や指示を行った「人」がいたのならばその人にまず謝って欲しいと思うのは至極当然の感情だ。
 娘が帰ってこない。何よりも大きな痛手を、どんな謝罪や補償を受けたって取り戻しようのない大きな大きな痛手を、ご遺族の方々は既に受けている。この動かしようのない、誰も嘘だでっち上げだと否定してくれない「事実」こそ、嘘だったらどんなに良いかと、今日まで私も何度思ったか分からない。でも誰もそう言ってくれない。それが本当に、言葉にならないほどにつらい。

 関係者の誰もが、かけがえのない命がもう二度と戻らないことを心の底から悼んで、悔やんで、ご遺族の方々と同じくらい深い悲しみがあることが、事件の直後から、真摯に、誠実に、繰り返し何度も示されて初めて、ご遺族の方達の方でも「指導なども愛情や責任感あってのものだったのかもしれない。長時間労働も皆がそれを当たり前と思っていて、誰もが他者の負担に気付く余裕を持てていなかったのかもしれない」と少しずつ、少しずつ時間をかけて思えるようになってゆくものだろうと思う。
 理不尽に家族の命を奪われていながら、経営層から「そちらの主張するこれについては事実だから謝るが、これはパワハラではないという結論になった。反論があるなら証拠を見せてほしい」と言われて「なるほどそうか」と納得し引き下がる遺族はまずいないだろう。

 何故、人が亡くなったという重過ぎる現実を前にして、謝罪の要不要を判断するのはこちら側なのだと示すような、ご遺族や世間の反発を招くのは必至と思われる主張の仕方をしたのか。
 何故、そのような主張をしたらメディアやSNSに根拠なき憶測が溢れ、個人単位に責任が矮小化され団員個人が攻撃されかねない、更に故人やご遺族の方まで攻撃されかねない、といった危機感を持てなかったのか。
 私は当事者ではないので、劇団の真意は分からない。様々な「情報」が溢れている現状では、真意を正確に掴むことは部外者には不可能だ。
 ただ私はあの会見(23年11月14日のもの)を見て、劇団経営層は会見であのような発言を行うことによって組織全体のイメージが毀損される可能性についてかなり無頓着なのだなと感じ、心底悲しく、虚しく、そして実際に今「宝塚歌劇団」というブランドそのものが、メディアやネット上のあらゆる声によって激しく毀損されてしまったことを非常に遺憾に思っている。

 いつもあらゆる媒体で誠実に言葉を紡がれる劇団員の方々、常に細やかな心遣いをしてくださるキャトルレーヴや売店の店員の方々、素敵な観劇体験の為にいつも奔走していらっしゃる劇場案内係の方々、日頃表からは見えないけれどもCS放送などで非常に真摯な仕事への姿勢やプロ意識をひしと感じる音楽や照明や大道具や小道具、その他様々な舞台運営に関わっている方々、他にもあらゆる関係者からいつも感じる「誠実さ」を、経営層による会見から殆ど感じ取れなかったことが本当に悲しかった。
 私があの会見を見て感じたのは、(これこそ寧ろバイアスであって欲しいくらいだが)「遺族の悲しみに寄り添う姿勢を半ば犠牲にして相互の歩み寄りが遅くなる/出来なくなるような事態になってでも、組織の維持の為に負わねばならない責任の範囲をとにかく絞りたい」という切実さばかりだ。

「誠実」とは何か

 23年12月7日付の「ご遺族代理人からの意見書の受領について」には、「ご遺族のお気持ちやお考えを真摯に受け止め、引き続き誠実に協議してまいる所存」と書いてある。
 真摯とは、誠実とは何か。こと「誠実」は、言葉の解釈が自分とは随分違うなと感じることがある。
 「我々の業界での誠実とはこういうことです」といった詭弁を弄することなく、「組織内の常識や慣習を外部の目線を取り入れて今一度見つめ直し、観客の誰もが安心して観劇出来る組織運営を行う為に労働環境の改善に尽力し、そこに必要なコストと時間と手間をかけることを惜しまない」という「誠実さ」を持っていて欲しいと、心から願っている。
 メディアやSNSにおいては、全体的なリテラシーの向上は正直もう見込めないのだろうなと時に絶望を感じる(自分も含め)が、劇団はまだ変われると信じているし、変わってもらわねば困る。変わらないままで企業として存続することは出来ないと思うし、大好きな人たちに心身共に安全が確保された場所で働いて欲しいからだ。

 歌劇団の全員が、十分な人員体制のもと、己の仕事に真っ直ぐ打ち込める労働環境の中で、幸せな気持ちで、舞台に関われる日が来ますように。

 ご遺族の方々のお心が、ほんの少しでも心の休まる日が一日も早く来ますように。その為に劇団が「誠実に」、「真摯に」、対応を重ね続けてくれますように。


24年3月になっての追記

 昨日、ご遺族側と劇団側の双方で合意を得たと、ご遺族側、劇団側どちらも会見があった。率直な感想は、「ようやくここまで」、そして「よくぞここまで」だ。上記の文章を久しぶりに読み直したら劇団の対応の酷さに改めて眩暈がしたが、それに比して昨日の会見、および劇団から示された報告書(https://kageki.hankyu.co.jp/news/pdf/20240328_003.pdf)は、本で見る「重大な問題が発生した時に企業がすべき対応」の一歩目をようやく踏み出せた、という感触だ。そして11月の会見での「(パワハラの)証拠を見せていただきたい」といった旨の発言についても改めて謝罪があったことから、劇団上層部にもこの3ヶ月の間に外的な視点が齎され、考え方が変わって来たのではとも感じられた。企業の対応としてはここがスタートラインであり、正念場はここからなので、引き続き動向を注視し続け、私も一消費者として自分が取るべき行動を考え続けていきたい。

 パワハラに限らず、問題が生じた際に個人に責任を落とし込み、その人だけを要因と決めつけたり罰したりしても問題は根本的には解決されないことが多い。上記の通り、そこに醸成されてきた「空気」を構成する具体的な要素を見つけ出し、ひとつひとつ丁寧に対処していかなければならない。それはとても根気のいる作業であり、経営層にとっても現場の方々にとっても簡単なことではない。でも二度と同じ事が繰り返されることの無いように、絶対にやり通さねばならない。その具体的方策が、報告書の別紙2に記載されている事柄たちだ。これらの取り組みが、迅速に、継続的に、かかる人員やコストを惜しまずに、「誠実に」実行され続けることを強く願っている。

 最後に、ご遺族の方々のここまでの心労は本当に計り知れないものがある。ことの重大さにまともに向き合うつもりが無いと捉えざるを得ないような態度の当初の劇団から、本当によくぞここまでの言葉と方策を引き出されたと思う。先日出された妹さん、そして昨日出されたお母様の悲痛なコメントには、本当に胸が潰れる思いになる。
 悲しみが癒えることは無いと思うけれども、ほんの少しでも心身を休められる日が来ますように、心から願っている。

 亡くなられた劇団員の方の、太陽のような眩しい笑顔が大好きでした。舞台で姉妹お二人のどちらかを拝見する度、もうお一人の舞台姿を思い出しては双方のご活躍に嬉しくなっていたあの幸せな時間をずっと忘れません。
 心より、ご冥福をお祈り申し上げます。

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