こぼれ落ちる弱者の存在
政府がどんなに工夫しても、こぼれ落ちる弱者は存在する。
現代で言えば、女子供老人は救われる。
男? 男はダメだ。どんなに弱っていても、相手が納得できる理由でないと自分で勝ち取れといわれる。
なぜ政府はイメージで支援する対象を区切るのだろう。
なぜ一律にできないのだろう。一律にすれば、現場の判断が不要になるので、人的負担が大きく減る。
コロナで困っているのは、みんな同じだ。でも政府は「困っていそう」な人ばかり助ける。まるで自分たちが世間知らずということを知られたくないようである。
就職できなかったおっさんにはマジで支援も(就職の)きっかけもない。
自己責任論が身に沁みる。
散歩しても心は晴れない。楽しそうな家族連れ。笑顔で歩くカップル。楽しそうな大学生。卒業式を終えた学生たち。昼間から酒盛りをしている老人たち。
外の公園は大賑わいである。きっとみんな補助金をもらっている(偏見)。
こちらは酒もないから安いコーヒーで哀しみを飲み込む。
こぼれ落ちた人間になるなんて思ってもみなかった。失敗に失敗を重ねてアラフォーで低時給アルバイト。
サボっていたわけではない。そのときそのとき真剣に生きてきた。能力は多少低かったかもしれないが、ペーパーなら平均以下になったことはない。
それでも、コミュニケーション能力に難ありとして、面接では弾かれる。この現象はネットではよく聞く話だが、個人が悪いのだろうか? 自己責任論が当てはまるのだろうか。
社会の基準が上がりすぎてはいないだろうか。
こぼれ落ちる弱者が醜いおっさんだったら、助けなくていいのだろうか。俺だって人間なんだけど。自分が例外的な存在になったとき、目の前が真っ暗になる。
弱者を切り捨てすぎたら、今度は自分が弱者になる(少なくとも可能性は上がる)のを市民はもっと自覚するべきだ。今の日本の弱者切り捨ては自分の首を絞めているようなものだ。
おっさんというこぼれ落ちるも無視される弱者について、議論をたくさんしたいところだが、今日は疲れたので寝る。
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