AとBと8ビート

顔も名前も知らない誰かから賞賛された文才、勝算枯れた分際で何を今更。どうかしてる、度を越してる、道化してる、同化してる。幸か不幸か、硬貨拭こうが、身から出た錆程度のことで相場は価値を落とさない。AとBとを済ませたら、Cのリズムは8ビート、それさえ守ればそうは勝ちは落とさない。

先日24歳になった。何が変わるわけでもないのだけど、お約束のように自分の人生を形式的に振り返ってみるなどしたところ、僕は僕の人生において、他人の介入で何かが大きく変わったという経験が乏しいと思った。なんてことはない、ただの僕個人の社会性の欠如に起因するそれが、存外僕の社会性を奪う要因にもなっているような気がして、こうなるともうただのタマゴニワトリ理論なのですが。僕が抱く劣等感の大抵は、支えてくれる、ないしは寄りかかれる誰かと共にある人を目にした時に一層深く僕を蝕む類の物で、長年自分が自分自身の中に見ていた矛盾の正体のひとつにこの歳でやっと気づくことが出来た。向き不向き、得手不得手は別として、手前味噌だが僕は割と大抵の事を人並み程度にはこなせる人間だし、客観的に見て頭もいい部類、処理能力も概ね高いことを自負してる。そんな自分なのにどうにも他人に勝っていると感じられないどころか、寧ろ酷く劣った存在に思えて仕方なかったのだが(自分の中で既に解決した要因がここに書ききれない程あるので割愛する)、これは至極単純に、僕の保持する能力の殆どが自分ひとりでどうにかするしかなかった成れの果ての結果身についた、言わばただの処世術に過ぎなかったという事実であって、元来の自分が何ひとつも満足に持ち合わせていないという先天的な能力の欠落を認める証左でしかないということ、大凡の健康な人間はそう言った欠落を個人で無理に補わずとも助力してくれる人との互恵的な関係性を構築することで難を逃れていることへの気づきが、ひとりでしか生きていけないのではないかとさえ思える僕自身の歪んだ輪郭を浮き彫りにした。僕は出来ないことを一つ出来るようになる度、孤独になっていた。

孤独が嫌なら、孤高であればいいと思う。これは僕が長らく自分自身に掲げてきた行動理念のひとつだが、その実僕はずっと孤独だったということをこの度自分で認めてしまった。孤独と孤高のボーダーラインを探して今日もまたひとり考える。あー、僕ってつまんねえ人間だなあ

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