見出し画像

同情するなら金をくれ(CV:安達祐実)

同情するなら金をくれ

ドラマ「家なき子」の我らが安達祐実パイセンの名ゼリフである。

同情、は相手からの親身になる気持ちからきているのに、実際されると惨めで腹立たしい。

かわいそうに…
なんて言われたところで可哀想なんかじゃない!
勝手に人に不幸を被せるな!
と生まれ持っての反逆心が渦巻く。

でも明らかに目立つ痛々しいケガをしたとき他人に見せびらかしたくなる衝動もある。
こんなに大きいケガしたんだよ〜見てみて〜可哀想でしょ?すごくない?
そうすると少し笑いつつも大抵の人が心配してくれる。
それは嬉しい。



可哀想、という感情の先には
心配、と同情、があると思う。

心配、はありがたいが
同情は不要なものだ。


同情の目を向けるとき、
その人は相手の苦境に改善する余地がありません、
てことを伝えているようなもん。
何もできないから同じ気持ちに
なったような気でいてあげる、という
烏滸がましいオナニーはやめていただきたい。


一方心配の目を向けるとき、
こうした方がいいよ、だとか
こうなるといいね、だとか
相手に苦境から脱却できる兆しを見せてあげられるのだ。


だから、
同情するなら金をくれ
になるの。


何もせず憐れむだけだなんて
こっちからしたらありがた迷惑。
同情は優しさじゃない。
ただ相手の苦境を自分とは違うフィールドに立つものだと考えた人の行為だ。


最近、かわいそう、が口癖になっている。
俺が向けているのは
同情の目でも心配の目でもない、
好奇の目。

悩むひとを見たとき
こんな目にあうなんて可哀想、
そんでもってめちゃくちゃおもしろい、
って感じちゃう。

他人の悩みなど、正直に言ってしまうが
「こんなことで」悩んじゃって〜と思う。

四六時中脳を食いつぶす白アリのようにタチの悪い悩みも、
第三者からしたら全部「こんなことで」のサイズになる。

「こんなことで」とはなんだ、と思うかもしれないけど、
これまで自分が対峙してきた数千個の悩みを全て思い返すことはできますか。
過去の自分だって、今の自分からしたら「こんなこと」で悩んでるんですよ。
自分をいちばんバカにできるのも、一緒に悩んでくれるのも、
全部自分なんですよ。

第三者の「こんなことで」視点を知れば、確かに大したことないようにも思えたりするときもあるんですよ。

客観的に楽観視。
空海が言ってました。

嘘です。


心配も同情も他人に求めるもんじゃない気がする。
他人に求めていいのは好奇の目だけ。

笑い飛ばしてもらいたくないことは、誰にも見せちゃいけないよ。


そういえば
この間友人が性病にかかったと言ってました。

(せーのっ)かわいそう〜〜!!!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?