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言いたいことがあってもなくても、ことばが使えるのはいい。それが偽造でなければ。



きのう久しぶりに職場に出た。シフトの都合で連休が長引いたからだが、生のことばが行き交う市場で買い物をしたような感覚があった。おかげでだいぶ楽になった。このところことばの袋小路にはまったようなところがあったので。

そう、いま買い物といったけれど、財布からお金を出し入れするように、ことばを使えるようになった、といったらいいのかも知れない。小銭のようなことばでも、一万円札のようなことばでも、出したければ気軽に使っていいのだ、どうせ残高が増えも減りもしないのだから、みたいな。この、好き勝手にできる感じをようやく手にした気がする。といって万札のようなことばはやはり使いづらくて、ついつい五百円のようなものを手にするような、いかにも貧乏性なところはある。

窓をあけてひんやりとする風を通す。。山あいなので、まだまだ寒く感じるが、それでもしばらく開けたままにしておきたい気がする。カラスの鳴き声が聞こえる。意味とか判断とかに使われない、純粋なことば、というイメージが湧く。ただ聴いていたくなる。それに引き換え、防災無線から定時にながれる、まんぼうなんとかの拡声音。マスク、手洗い、と同じことを甲高く繰り返す。街中から離れているのでこうなるらしい。もはや意味すら失っている。

偽札のようなことばだと思う。あるいは、、巨大なトイレットペーパーで、ゴシゴシ尻を拭っているさまを、耳づてに中継されているような。


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