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舞台裏で、逢おう。目いっぱい気合いを入れて。


親と同じ。文章との出会いは、選べない。出会いの手引きも、するものじゃない

ひとつの文章と出会った、馴れ初め、に、ずっとこだわってしまうことがある。親は選べない、というやつと同じで、どうすることもできない状況で出会ってしまったがゆえの、後悔に、付きまとわれてしまうのだ。……いま出会いと言ったけれど、それは比喩でもなんでもないのであえて繰り返しておく。「文章」と「出会ってしまった」こと。ただそれだけのことをいまわたしは問題に、している。ともあれ。

Yさんの文章で、それは起こった。……Yさんとは、自然農法の実践者としては著名な方だ。その人がFacebookで自身の母親について、発信したことがあり、それはおかあさまが癌で亡くなる寸前の思いを綴ったものだったが。

『すごく素敵な投稿だから、ぜひ読んでみて』と、知りあいがそのYさんの文章をメールで送ってきたのだった。そしてこの出会いこそが、問題の、はじまりだった。……ごく簡単にその文章について紹介しておく。母親を亡くすに至る切々とした心情が、一人の息子からみた母親とのエピソードとして、ていねいに描かれてあった。それはたしかに味わうに値するものだった。

しかし、一読して、でもだからなんなんだ? そもそもなぜ、わざわざこのタイミングで、しかもメールなんかで紹介してくるのだ、という気が、とてもぶっきら棒な感想だとは分かりつつ、してしまい、それが我慢ならなくなった。ううむ、と、食べ終えた後にヨウジを使うように、また読み返して、今度ははっきり、困った、厄介なことになったと頭を抱えてしまった。……こういう時のわたしは、まるで子を宿した母親の、つらみ、に似たものを感じてしまうのが常だ。ちょっとしたことにも、敏感に反応して、つい腹を立ててしまう。間が悪く、ちょうどご飯が炊き上がった頃だったので、あたりに炊飯の独特の匂いが立ち込めており、わたしはそれに激しく反応した。「うるせえ!」と怒鳴ってしまった。そうやって、うっぷんを晴らしてやってから、湯気がしんどいのよ、つわり、なのよねえと、昔の奥さんが炊飯の匂いに同じことを漏らしていたことを思い出していた。そうして。

その昔の奥さんとのことは、後に回すが。……せっかくの良い文章との、出会いを、ひどくスポイルされた、ケガされたような気がしてどうしようもなく、つづけて。

「畜生め、酷いことをシやがる」と、まるで時代劇の岡っ引き、現代でいうところのドラマのデカが口にするようなセリフを、わたしは吐いた。あわせてこんな声も、聞いていた。

『文章と、誰かが出会う時の、安易な手引きをしてはいけない。例え親切心からなのだとしても、それは一歩間違うと出会った人はともかく、その文章を、殺す。』

ヒト様の舞台裏に、文章から入るなら、せめて疑うことが必要だ。

話は、変わるし、いきなりの言い草だが……私は誰かの人生の舞台裏には何の許可もなく、ずかずかと入った方がいいと、思っている。縁故や抽選などの幸運に支えられた役得も、何もないところで、乱入して、警備員に追い出されるかもしれないという不安を抱えつつ、それでも入るのがむしろイイとさえ思っている。なぜなら人生という舞台の素晴らしさや魅力の秘密は、間違いなく、その舞台裏に詰まっているからであり、また舞台に立つヒトもそれを知っているので、彼ら彼女たちから見れば「楽屋」となるソコを隠そうという意識を働かせる傾向にある、と踏んでいるからだ。これは理屈ではなく、経験から学んだことだ。だからこそわたしは誰かに会って話をする時ほど、その人の人生の舞台裏になんとかして潜り込みたく、ずけずけと、あるいは慎重を期しながら、ともかく入り込みたいと画策する。若干、相手と自分の気持ちを騒がしくさせても、十分引き合う価値があると思いつつ、入ろうとする。

ただ、ひとつの文章を拠り所にして、その人の人生の舞台裏にアプローチしようとする時は、話は全く別で、十分な注意が必要だと痛感する。……先に挙げた、文章との出会いがまさしくそうで、以下は自戒を込めてあえて厳し目に言うのだけれど。

Yさんがモノした文章から、そもそもわたしはかれの人生の舞台裏に入る気など、全くなかったのだ。……なんとも、ずいぶんな言い訳だが、でもこれは本当のことで、たまたま、わたしの知り合いがメールなどというお手軽なツールで、しかもこちらの都合に構わず送りつけてきたから、仕方なく読んだ、ということにすぎないのだった。これは我ながらひどい、話だ。だってわたしの知り合いともどもYさんには、たいへんな失礼を(当のYさんには関係ないが)しでかしたことになるし、人生の舞台裏に入り込むどころの騒ぎではない、むしろデバカメ、盗撮や盗聴に近い行為を働いてしまったことになる。

なので、会って話をするのが、最善だし、それが無理でもせめて電話でも良いから、生の言葉(声とか間合いとかそういうもの)に、触れたい。もしそれが不可能で、文章でしか入り込む余地がないのだとしたら。

よほど想像力を逞しくして、臨まないと、人生の舞台裏そのものを見誤るかもしれない。言ってみれば暗がりを手探りでまさぐるようなことになるかもしれない。だったら、そんな曖昧な暗がりはさっさと出て、深みも面白みもなんにもなくてもいいから、せめて明るい場所へ行こうと思う。その方が何倍もいいはずだと思う。


舞台裏を、捨てるカミ、拾うカミあり。

これで話しは、終わりになる。……でもそういえば、ご飯の匂いで怒鳴った時の話で出した、昔の奥さんのことが、まだ積み残っていた。本当は触れずに忘れてしまいたいところだけれども。

せっかくなので、引っ越してから全く手をつけていなかった荷物のようにホコリを叩きたたきしながら、いまふたたび思いだしてみる。……その頃のわたしと彼女との間にあった、誰にも明かしたり明かされることのなかった、舞台裏は。

いまだに、他でもないわたしの人生の舞台裏として、そう色褪せてはいないのだということに、気づくし。またそう思えば、もう綺麗さっぱり捨ててしまいたいと思っている、もろもろの記憶たちも、これは妄想の域を出ないけれどそれに関わっていた相手方の誰かの、なかで。

まだしぶとく生き残っているような、予感さえ、してくる。



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