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脇本平也『宗教学入門』を読む 第22回

第六章「宗教的実在観」

3「非人格的実在の観念」


【マナ的力】
メラネシア先住民における非人格的・超自然的な力の観念に対する名称
マナ的力は人生の吉凶禍福を左右する根本的な作用として実在

似たような概念は世界各地の民族にもみられる
アメリカ・インディアン諸族の「オレンダ」・「ワカン」
インドネシアの「メナング」
マダガスカルの「ハッシナ」
日本の「イツ」(という説がある):厳島神社の「イツ」、逸材、秀逸などの「イツ」、(異なることが)著しいの「イチ」、など。これらから「かしこみつつしむ」態度を「斎く」(いつく)という

非人格的な実在も、なにか特定の対象に宿ると(局所化されると)、人格的な側面を帯びる。酋長のマナとか天皇の大御稜威など。

この超自然的・非人格的な力の流動性が高まり、普遍化されると、全宇宙を支配する根源的な法則、あるいは全世界を根底から支える究極的な理法という観念。(非人格化の徹底したもの)
例:
古代インドの「リタ」。宇宙を支配する根本的な法則、人間の世界を秩序だてる道徳的な理法
インドの「ブラフマン」。梵天(男性名詞)、梵(中性名詞)。梵天は人格的な神の名前。梵は、大宇宙の根本原理
中国の「道」。全宇宙に遍満する万物の根源という非人格的な実在の観念
ギリシャの「ディケー」。本来は理法・きまりを意味する語。それがやがて「正義」とか「運命」の女神につながる

もっとも代表的なものが仏教における「法」

【仏教における「法」】
原始仏教・根本仏教(釈迦が説いた教説にみられる仏教最初期の根本思想をさす)
宇宙の根本的理法を悟ることによって苦悩からの解脱を教え示すもの

サンスクリット語で「ダルマ」、パーリ語で「ダンマ」、訳されて「法」とよばれる「真理」
定式化されて「三法印」や「四聖諦」

「三法印」(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静。一切皆苦が加えられることもある。四法印)
人が苦しむのは、無常・無我の理法を悟らないからだと仏教は教えている。

無常:常であるものは無いにも関わらず、人は常を求める。
無我:我は無いにも関わらず、我があると思い、思うままにすることを求める

理法に合わない欲求を捨てる。理法を悟ること。そうすれば、涅槃、寂静に入ることができる

同じ真理を別の角度から整理したもの「四聖諦」(苦諦・集諦・滅諦・道諦)
苦諦:一切皆苦と同じ
集諦:苦の原因は渇愛・我執の煩悩にあるということ
滅諦:苦の滅した涅槃寂滅を示す
道諦:この涅槃寂滅の境地に至るための方法として八つの正しい道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八正道)
苦諦と集諦は人間の現実の状況に関連し、滅諦と道諦は理想の境地に関連すると考えられる

これらの「法」を悟って解脱の境地に達したものが仏陀・覚者
神ではなく、法をよりどころとして、法の体得によって仏陀になること(成仏)が目的
したがって、究極的な実在を、非人格的な理法に見出している
仏陀は超人間的な存在としてのキリスト教的神とは異なる。(誰でも悟れば仏陀になれる)

時間の経過とともにゴータマ(お釈迦さん)が神格化されるようになる

三身観(法身・応身・報身)→大乗仏教

法身:法そのもの(真理)、仏陀である根本的な理
応身:歴史上に現れた釈迦牟尼仏(法の人格化)
報身:修行したのち、みずから仏となりながらも、衆生済度のためにさまざまな姿になって利他の働きをする諸仏・諸菩薩を指す

自分だけが解脱して涅槃に入るのではなく、一切衆生の救済をみずからの誓願として利他の道を行く菩薩(法蔵菩薩、観世音菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩など)

仏が日本では神と近い存在として考えられるようになり、神仏という言い方になる

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